46人目 中田良弘 気さくな『男前』投手との意外な接点(?)[13.7月号掲載] |
|
美男‐美女の結婚。注目のカップルの誕生だ。目出たい婚約発表の席である。まわりの皆さんから祝福され、気持ちの上で最高に幸せな気分の、中田良弘氏本人が持参した発表資料を見て、自分の目を疑った。奥さんになる彼女のお父さんの名前がそれだ。『本間 勝』さんなのだ。まったくの同姓同名である。阪神・中田良弘選手と、本間勝さんの娘さんの婚約を、広報担当の本間勝が発表している。いやはや、なんとややこしいことか―。私、タイガースの広報担当に就任して、数々の話題を発表し、監督の交代劇など数々の問題にも直面してきたが、自分の気持ちがこんなに複雑だったことはない。 同姓同名の人は世の中にたくさんいる。別に珍しいことではない。これまで何人もの同姓同名の人を見てきた。それほど気にしたことはなかったが、不思議なものだ。いざ、これが自分のこととなるとおかしな感覚になる。もちろん、私にとっては初めての体験。中田本人に『えっ…ホンマかいな…』とジョークで問いかけてみると『ホンマです。間違いありません』と笑いをかみ殺して、こう返ってきた。まあ、目出たいこと。複雑な気分ではあったが、私も一緒になって喜んだものの、本間さん、大阪の人だと聞いた。一度調べてみようと好奇心にかられて当時の大阪の電話帳に目を通してみた。いました。わずか、一人だけおいでになりました。 中田本人はルンルン気分だが、私にとってはこれからのほうが大変でした。なんと問い合わせの多いこと。我が家の家族構成をよく知っている人は、私に娘がいないことはわかっている。『珍しいことがあるもんやねぇ』とか『ひょっとしたら遠い親戚ではないの…』とか『何か関係がありますの…?』ぐらいで済んだが、そこまで付き合いのない人が厄介だった。『あの婚約発表は、本間さんの娘さんですか…?』とか『本間さんとこ、娘さんいました?』などと聞いてくる人の多いこと。しばらくはこの話題で持ちきりだったが、なかにはこんな阪神ファンも。『おめでとうございます。お嬢さんが結婚されるそうで、よかったですねぇ』ともう決めつけて話をしてくる人まで出るしまつ。ひとつ、ひとつ説明するのにひと苦労しました。 本人は相変わらずご機嫌だ。明るい性格も手伝って、私の顔を見ると『お父さん、お元気ですか―。おかわりありませんか』など、いきなりジョークをぶつけてくる。ならば、と…。こちらも負けずに『娘は元気にしとるか―。まさかケンカなんかしてないやろなぁ』とやりかえす。互いに顔を見合わせて笑いながらのやりとりをしていたが、美男‐美女の結婚と伝えたとおり、中田氏、なかなかの男前で、お洒落。ファッションも流行の先端をいっていたし、身だしなみにも気を遣う。選手時代もそうだったが、今も解説者としてテレビに出ることが多く、本番前になると、必ず鏡の前に立って、髪の毛にクシを入れる。そんな光景を目にすると、若い時とかわりのない同氏がいるようだ。 中田氏といえば、高校球界の名門、横浜高校から亜細亜大、日産自動車を経て、阪神タイガースへ入団したピッチャー。通算成績は実働十三年間で、224試合に登板。33勝、23敗、37セーブポイントを挙げた。その成績の中で、面白いといおうか、珍しいといおうか、1981年7月21日の対広島14回戦で勝利投手になると、1985年8月11日の対中日18回戦まで、5年間の勝ち星をつなぎ合わせて、球団タイ記録の18連勝をマークしている。一時は故障もあって苦労したことはあったが、5年間敗戦投手にならなかったのだから、強運の持ち主というほかない。本当に珍しい記録だ。特に日本一になった年には12勝を挙げて優勝に貢献した。 明るい性格。ついていたニックネームが和製トラボルタ。少々イチビリという面はあったが、同氏のまわりにはいつも笑いのあった愉快なヤツ。この婚約発表、人騒がせな一面はあったが、なぜか親近感を覚えていたのは確かだ。さて次回は、日本一に輝いた年の投手陣を支えた木戸GM補佐にスポットを当ててみる。 |
|
●中田良弘(なかだ よしひろ) 1959年4月8日生まれ。神奈川県出身。横浜高校から亜細亜大(中退)を経て日産自動車に進み、1980年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。初年度の1981年に、先発、中継ぎ合わせて38試合に登板して6勝(5敗)を挙げた。タイガースが日本一に輝いた1985年には16試合に先発し、31試合登板で12勝5敗と大きく貢献。その後も主に中継ぎとして、タイガース一筋で1994年までプレーした。引退後は解説者、評論家として主に関西を中心に活躍。2008年には関西独立リーグ、神戸9クルーズの監督を務めた。 |