4人目 岡田彰布 〜気遣い上手で、したたかで、選手時代から発現していた類い稀なるリーダーシップ [09.5月号掲載] | |
リーダーシップの取れる男だった。ぶっきらぼうに見えて気遣いができた。無頓着な一面もあったが、私は、岡田彰布氏の野球生活を支えてきたのは“したたか”な性格にあったと思える。 選手時代のこと。時々目にした光景だ。気の合った仲間が集まって雑談している。どんな内容かは同席したことがないのでよくわからないが、時には野球の話題で花が咲いていたと思う。不思議である。うっすらと耳に入ってくる声を聞いていると、声の主は、決して話し上手とはいえない同氏ではないか。いつの間にかその場を仕切っている。大学時代はキャプテン。すでにこの時点でチームリーダーの存在感を覗かせていた。話題には事欠かない男。何本ものアンテナを立てているのだろう。情報入手の範囲はかなり幅広い。人を引き付ける何かを持っている。おまけに面倒見はいい。五年間采配を振るった。2年目にリーグ優勝してからは、常にペナントを争ってきた。私が接して感じた岡田像からは、うなずける五年間だった。 岡田氏とは、こんなこともあった。私が、広報担当から営業担当に移動してからのこと。公式戦やオープン戦の日程を組む仕事をしていたころだった。ある時、連盟の人たちと寿司を食べに行く約束をしたものの、私、お寿司屋さんをよく知らない。ここで顔が浮かんだのが、全国区でどこへ行っても顔の広い同氏。懇意にしている店があれば紹介を願おうと声をかけてみた。さすがだ。考えることもなく即答してくれた。『知ってますよ。それやったら銀座の店紹介しますわ』。あくる日、大変な気遣いをしてくれていたのに恐縮した。 暖簾を潜ると『いらっしゃい』威勢のいい声が迎えてくれた。私が身分を明かすと、店の大将。『ああ、岡田さんから聞いています。どうぞこちらへ』。初めてのところへ行くとき、多少の不安はあるもの。実に気持ちよく迎え入れてくれた。ホッとしてカウンターに座る。ネタはいい。みんなでおいしくいただいて空腹を満たした。十分満足して支払いの声をかけると『受け取れません』。まさか・・・。返事に耳を疑った。そんなつもりは全くない。『それはダメです。支払いは私がしますから、精算してください』。懇願しても、どうしても聞き入れてくれない。ついには『いや、お金をいただきますと、岡田さんに怒られますから』。ここにも気遣いの一端が覗いている。ふだん、あまり見せない同氏の人間性に触れたような気がした。 弱肉強食の世界。各チームの猛者との戦いだ。常に己を強く見せておきたい。プレッシャーに押し潰されるようでは、レギュラーは張っていけない。気持ちを強く持ち続けることが、この世界で生き抜いていくための必要条件。だから、各選手プライドは高い。我がままに見られがちだが、本来は気遣いのできる選手は意外に多い。同氏もその一人。あまり触れたくないことだが、若かりしころ、某写真週刊誌につかまった。いろいろ詮索されたが、この一件で私は逆にリーダーとしての確信を得た。同誌に報じられた内容は、単独行動をしていたように書かれていた。本人もその時点では認める受け答えをしていたが、数年後だった。事実が私の耳に入ってきた。 『実を言いますと、あの時、僕らも一緒だったんですよ』。その現場にいた選手の話である。複数での行動であれば、全くニュース性のない出来事だ。そのときに真実をつかめなかった自分が情けなかったが、本人はわかっていながら、あえて口にしなかった。何故、同誌の記者が取材に来たときにすべてを語ってくれなかったのか。疑問を抱いた。当時の広報担当として、やや不満を持ちながら岡田氏に確認してみた。何の驕りもなく、サラッと話してくれた言葉は、気遣いの何物でもなかった。 『確かにそうですけど、僕が声をかけて連れ出した人たちですよ。その人たちに迷惑をかけるわけにはいかんでしょう』 この気遣い。この思いやり。これが岡田彰布なんだろう。ごく当たり前のように語る表情。口調を見聞きしていると、さらに突っ込んだ質問をする気にはなれなかった。振り返ってみると、いろいろ頭に浮かんでくる。まだまだ書き足りない。申し訳ありません。彼の野球を支えてきた“したたかさ”。次回ということで・・・。ま、楽しみにしていてください。 |
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●岡田 彰布 1957年11月25日生、大阪府大阪市出身 北陽高(現・関西大学北陽高)〜早稲田大〜阪神タイガース(1980-1993)〜オリックス・ブルーウェーブ(1994-1995)〜 オリックス・ブルーウェーブ(1996-1997<ファーム助監督兼打撃コーチ>)〜阪神タイガース(1998-2008<1998ファーム助監督兼ファーム打撃コーチ、1999ファーム監督兼ファーム打撃コーチ、2000-2002ファーム監督、2003一軍内野守備走塁コーチ、2004-2008一軍監督>) 父親が三宅秀史ら阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育つ。北陽高校時代には1年生ながら甲子園に出場、早稲田大学進学後は1年生からレギュラーとして活躍。ドラフトでは6球団競合の末、タイガースが交渉権を獲得した。 ルーキーイヤーに新人王を獲得するなど、プロ入り後も中心選手として活躍。なかでも、1985年4月17日の巨人戦(甲子園)でのバース、掛布に続いたバックスクリーン3連発は伝説となっている。この年は五番打者として打率.342、35本塁打、101打点と打撃3部門でいずれも自己最高の成績を残した。 選手時代晩年はオリックスに移籍して代打の切り札として活躍し、1995年には自身二度目の優勝を経験。その年のオフに現役を引退した。 オリックスファーム助監督兼打撃コーチを経て、ファーム助監督兼ファーム打撃コーチとして1998年にタイガースに復帰。ファーム監督、一軍内野守備走塁コーチを経て2004年から一軍監督に就任。1年目こそ4位に終わったものの、2年目の2005年には藤川、久保田、ウィリアムスでJFKを確立、今岡の五番転向、安藤の先発転向、鳥谷のショート固定など岡田色を前面に押し出してリーグ優勝を飾った。以降昨オフに退任するまで、毎年優勝争いを繰り広げるチームを作り上げた。 |