3人目 掛布雅之〜四番としての矜持 [09.3月号掲載] | |
ビールかけが始まった。祝勝会(1985年)のムードが最高潮に達した時、ふと会場の中央に目を向けると、鏡割りをした日本酒の一斗樽にお尻から、どっぷりつかっている選手がいた。背番号を見ると“31”頭からビールはかけられ放題。それでも笑顔のたえない掛布がいた。 こんな一面を持ち合わせる男との出会いは、私が、広報担当として阪神タイガースに復帰した年だった。すでに“不動の四番バッター”にどっかと座っていた。タイガースが唯一、日本一になったシーズンも、4番を一度たりと外れることはなかった。存在感があった。実績も申し分ない。己の立場も心得ている。野球に取り組む姿勢は立派。プレーを目の当たりにした選手の中で、3代目ミスタータイガースといえば掛布雅之氏だろう。ホームラン王3回、打点王一回のタイトルホルダー。当然取材の申し込みは多かった。なるべく負担のかからないように調整しながらインタビューを受けていたが、報道陣の前へ安心して出せる選手だった。 まずは、広報担当の立場で接した掛布氏を語ってみる。無駄口はたたかない。自分の立場をわきまえた受け答えをしてくれた。新聞紙上等による厳しい批判記事にも、ほとんどクレームをつけることはなかった。『田淵さんを見てきましたから』。現役時代、こんな話を聞いたことがある。この言葉が何を意味するか、答えを出すまでに時間はかからなかった。試合翌日のマスコミ報道である。ホームランでも打って勝利を挙げるものなら“掛布”という大きな活字が、各スポーツ紙の一面を飾る。逆にチャンス打てなくて負けた場合は、まるで戦犯。天と地ほどの差がある。掛布氏の言いたかったのはこの点だが、先輩の背中を見て育ち、自分でも体験した4番の重責を心得ていた。 取材に関して、同氏に助けられたことがあった。申し込みが殺到する二月のキャンプ時である。特にご指名の多い選手だ。なるべく各放送局平等にインタビューを受けようと思ったら、段取りよくこなしていかないと時間がない。取材の調整をしようと思って、昼食時に相談に行くと『僕、キャンプ中の昼食はとりませんから、いつでもいいですよ』と言ってくれた。これはありがたい。30分前後の昼休みを利用。各局のインタビューはこれですべてOK。大きな悩みが解消された。本当に助かった一件だった。 大きく育った掛布だが、四番の座を築くまでの道のりは決して平坦ではなかった。それだけに四番へのこだわりは強い。解説者になった今でも、各チームの四番バッターに対する注文は厳しく、重要性を語る口調は実に熱っぽい。1981年から、五年連続全試合出場の間四番を打ち続けた。まさに打線の軸である。身長175センチ、体重77キロ。体は大きくないが、それでいて長距離砲。『打球の角度が、どうしてもホームランにならない時期と、いい角度で上がる時期がある。だから、ホームランは以外に続けて出るもんなんですよ』これも現役時代の話。一シーズンを通してのペースを語っていたが、試合中、ホームラン談話をとりに行った時の表情は『ちょっと詰まり気味だったべ』の不満らしき言葉とはうらはらに、私には大満足しているように見えた。 『無事これ名馬なり』という。プロ野球の世界も、ケガに強いことがスタープレイヤーの証である。1986年、死球による骨折というアクシデントがあって、残念ながら連続出場は途切れてしまったが、663試合連続して出場した過程には、出場が危ぶまれる故障はあった。腰痛があった。手首、足なども痛めた。ドクターストップはかかったが、その都度、自分の意思で強行出場した。ある年、何かに触れただけで激痛が走る発疹ができたことがあった。奥さんから、トレーナーに『試合に出るのを止めてほしい』の連絡があった時も、包帯を体に、きつめに巻き付けてゲームに出た。プロ意識のあらわれだろう。スターにのぼり詰めたがゆえの責任感であったに違いない。ケガに強い選手だった。 どこまで書いても終わりそうにない。今回だけですべてを書き尽くすことができなかった。次回、もう一度掛布氏に付き合ってください。 |
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●掛布雅之 1955年5月9日生 タイガース入団前からアマチュア球界のスターだった初代ミスタータイガース藤村富美男選手、2代目ミスタータイガース村山実投手に比べ、3代目ミスタータイガース掛布雅之選手はドラフト6位、練習生同然の入団だった。しかし、オープン戦での活躍が認められて1年目から一軍に抜擢されると2年目のシーズン後半に四試合連続本塁打を放ってレギュラーに定着。3年目には打率3割、27本塁打をマークしてベストナインを獲得し、タイガースの主軸へと成長した。1979年にはタイガース史上日本人最高記録となる48本塁打を放って本塁打王を獲得し、江夏、田淵が去ったタイガースの名実ともに新しい顔となった。 |