38人目 根本陸夫 チーム強化に辣腕を振るった「球界の業師」その素顔[12.10月号掲載] |
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「野球の見方にもいろいろあるが、こういうのも、ひとつの方法やでえ。その日、その日によって、各ポジションを決めつけてみるんや―。今日はピッチャー、明日はキャッチャー、その次の日はバッターになったり。毎日、変化をつけて見るのもいいと思うよ。全体的に、なんとなく野球を見ていると、野球を見ることがマンネリ化して、どうしても集中力が薄れる。一度やってみたらどうかな。まあ、野球をネット裏から見るのもいい勉強になるからな。新聞記者も大変だぞ。頑張れよな』 私が新聞記者になった年、野球の見方を伝授してくれた人。故・根本陸夫さんである。あの鋭い眼光。近寄りがたい雰囲気。何か、“怖いオッチャン”(失礼しました)にさえ見えた。同氏をよく知る人であれば、よくわかる表現だと思うが、二人で、また数人で会話している時の表情、特にその笑顔は実に人懐っこい。冒頭の話は、私が記者になって初めて公式戦を取材に行った時の出来事である。場所は今はなき大阪球場。確か南海―西鉄(現西武)戦だった。当時は評論家もしておられたと思うが、記者席におられた根本さんに挨拶に行った時、あの人懐っこい笑顔で話してくれた。 ユニホームを着ている間の同氏に、際立った実績はない。選手時代もさることながら、監督になって広島を皮切りに、クラウン、西武(同じチーム)、ダイエー(現ソフトバンク)で十一年間采配をふるってきたが、この間、Aクラスになったのは初めの年の一度だけ。通算成績を見ても、598勝、687敗、66分け。・465の勝率だったが、根本さんにはその監督時代にもお世話になった。クラウン、西武時代である。私が勤めていた西日本新聞社は、福岡が本社のブロック紙。こういう関係上、特にスポーツ紙では西鉄当時からライオンズを中心にした紙面作りをしていた。チームが強い時は話題はたくさんあるが、弱くなるとネタがない。雨の日などの紙面作りには四苦八苦したものだが、こんな時『苦しい時の根本さん頼み』と決め込んで監督の元へ。 我々にとっての難問を快く受け止めてくれたのが、監督・根本さんだった。『みんな大変やなあ。こんなのどうや。今日は若手でいくか……』と言いながら、クラウン当時の真弓選手(前阪神監督)の話題を提供してくれたこともあった。話の内容までは覚えていないが、攻、守、走、三拍子揃った選手であることを説明してくれた。『これで、どうや』人懐っこい笑顔だった。実に面倒見がいい人だ。フロント入りしてから発揮した持ち味の背景には、こうした性格があってのこと。幅広い人脈を築き、組織にも一本の筋を通したことが『球界の業師』と言われた由縁だろう。 根本さんが本領を発揮しだしたのは、フロント入りしてからだった。チーム強化の補強には数々の手腕をふるった。西武時代、ノンプロ入りが内定していた工藤公康をドラフトで指名して口説いたとも…。ダイエー(現ソフトバンク)で、駒大入りが決まっていた城島健司(現阪神)を入団させたときも、かなりの物議をかもしだしたが、ビクともしないのが根本陸夫だった。その他にも伊東勤捕手などは、一年前から球団職員として入団させるなど、西武からFAとはいえ、工藤、石毛、秋山らを獲得して常勝軍団の礎を築くために奔走したもの間違いないだろう。極め付けは、自分が辞任したあとの監督だった。最終年は球団の専務を兼任していたこともあって、根本さん本人が監督をしながら次期監督の交渉役をしていたという。候補は王貞治氏。巨人と王を切り離すのは大変だったと思うが、そこは交渉事にかけては百戦錬磨の根本氏。見事攻め落としたのはさすがだ。 そういえば、阪神OBの故・田宮謙次郎さんから、こんな話を聞いたことがある。日大時代にバッテリーを組んでいたという。『面倒見のいいヤツだったが、いまひとつわからないところがあった』と―。確かにそんな一面を持っていたが、顔の広い根本さんらしいというか、思いがけない話をしてくれたことがあった。ダイエーが高知でキャンプを張っていたときのことだが、『実はなあ。本間も聞いたことはないと思うが、安芸のキャンプ地の件で、高知の人が初めに話を持ってきたのは、本当はオレんとこやったんや。オレが近鉄に居たころの話だが、チームにその気がなかったので断ったら、タイガースと交渉した見たいやでえ』という話。安芸といえば阪神のイメージが強いだけにビックリしたが『この人ならあり得る』と思わせるのが幅広い人脈を持った人らしいところ。 楽しい人だった。信念を持った人だった。曲がったことが嫌いな人。おそらく、選手としてユニホームを着た人で、球団社長にまで出世したのは初めてのケース。いかにチーム作りに長けていたか、最初で、最後の人だろうが、次回は、その上をいって、一年に一度は必ずヒアリングの機会を与えてくれた、故・久万俊二郎オーナーにアタックしてみる。 |
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●根本陸夫 1926年11月20日、茨城県出身。1952年に近鉄に入団後、通算186試合に出場して1957年に引退。その後、スカウトを経て近鉄、広島でコーチを経験後、広島監督に就任する(1968-1972年)。その後解説者を経て1978年にクラウンライターの監督に。1979年に西武に買収されると、そのまま初代監督兼管理部長の要職に就いた。田淵幸一、野村克也などを獲得してチーム作りを進め、1982年からは管理部長に専念。1985年のドラフト会議では自ら清原和博を引き当てるなど、西武黄金時代の礎を築いた。1993年からは福岡ダイエーで代表取締役専務兼監督に就任。1995年からは専務に専念し、城島健司・工藤公康の獲得を初めとしたチーム強化を図り、その手腕は「球界の業師」「根本マジック」と評された。福岡ダイエーの球団社長に就任した1999年4月30日、急性心筋梗塞のため72歳で死去。 |