1人目 藤村富美男 〜「物干し竿」で記録と記憶を残した栄光の背番号「10」[09.1月号掲載] |
|
『人は見かけによらない』とは、よく言ったものだ。お陰でとんでもない“大失態”を犯してしまった。 私が入団した年である。それも相手は初代ミスタータイガース、故・藤村富美男さん。大先輩が醸し出す雰囲気からして、まさかお酒の飲めない人だとは思えなかった。逆に私が抱いていたイメージは、何事にも豪傑な人だった。 初めてお目にかかったのは、高校3年生の時。プロ野球界のシーズン終盤。中日戦のための名古屋遠征時。当時タイガースのスカウトだった故・河西俊雄さんに連れられて宿舎へ入団の挨拶に出向いた。部屋へ通された。第一印象は、まるで“虎”。勝負師の鋭い目をした怖そうな人。『いいか。勝負はこれからだぞ。頑張れよ』らしき声を掛けられた記憶はうっすらと残っているが、緊張のあまり、よく憶えていない。物凄い、オーラを発散している。この時も、私のイメージは大きくふくらんだ。 事件?が起こったのは私がタイガースのユニホームを着てから。ペナントレース突入直前の電鉄本社主催の激励会だった。場所は神戸だったと思う。中華料理店に、球団職員、そして現場からは監督、コーチをはじめ選手全員が参加して行われた。新入団選手4、5人で何とか会場にたどり着いた。ホッとしたところで席順を見て驚いた。何度見直しても、あの藤村さんと同じテーブルではないか。監督からこの年、現役選手に復帰したとはいえ、我々新人の身分からしたら“雲上の人”。席を決めた人を恨んだが、めちゃくちゃ緊張して席に着いた。 ニコやかに笑っておられた。好々爺らしい一面をのぞかせている。故・野田誠三オーナー、故・田中義雄新監督などの挨拶が終わり、各テーブルに料理が運ばれてきた。お腹はペコペコ。早く食べ物を口に入れたいが、何ぶん藤村さんと同席だ。先輩より先に風呂へ入るのもままならない時代。新人が勝手に手を出すわけにはいかない。なかなか緊張はほぐれない。やや遠慮気味に料理をつまんでいると、藤村さんの方から『お前ら、若いんだから遠慮せんと食べろよ』と気遣いの言葉をかけていただき、気持ちはぐっと和らいだ。この時とばかり席を立って挨拶に向かったが、問題はこの直後に起こった。 『中京商業(現中京大中京高)から入団しました本間です。よろしくお願いします』。ビール瓶をもって挨拶に行ったのが失敗だった。 『俺は飲まん』―もう笑顔はなかった。あの勝負師が放つ、鋭い眼光が心臓にグサッと突き刺さった。一瞬、わが身が竦んだ。一升ぐらいは平気で飲める、と思っていた私のイメージはどこかへ吹っ飛んだ。ビックリしたのは当然だが、それどころか、監督経験者と高校出の新人。その立場は天と地ほどの差がある。ましてや、縦社会のこの世界。私の気持ちの中では、大先輩に対して大変失礼な、大失態を犯した思いが強く、『どうもすいません。失礼しました』と何度頭を下げたことか。その場にいたたまれない心境だったが、逃げ出すわけにはいかない。2時間、ただ黙って食べるだけに終始するしかなかった。 勝敗を左右するホームラン。帽子を振ってベースを一周した。ベンチ前では両手を挙げてファンの声援に応える。当時では珍しく、パフォーマンスが自然に出てきた人だった。ガッシリした体型。37インチの“物干し竿”と言われた長尺バットを振り回すホームランバッター。肩をいからせて歩く姿から、誰が酒の飲めない人を想像しますか?確かに、イメージにそぐわない人はいる。江夏豊氏、江本孟紀氏。両人ともあの雰囲気で、アルコールはダメな人。そのアルコール事件は、しばらくの間、私の中で引き摺っていたが、数日後、甲子園球場での練習日。投手陣だけでバッティング練習をしていると、藤村さんから『ポイントはもっと前や』のアドバイスをいただいた。気にしている様子はない。正直、ホッとした。諸先輩方にこのいきさつを話したら、大笑いされた。『人は見かけによらない』事で、こんな恐ろしい体験をするとは・・・。 |
|
●藤村富美男 1916年8月14日生―1992年5月28日没 阪神タイガースの永久欠番第1号となる「10」を背負った初代ミスタータイガース。日本のプロ野球創成となった1936年、タイガースの公式戦第一線に先発して完封勝利。戦前、戦後を通じて本塁打王や首位打者、打点王等、数え切れない程の打撃タイトルと記録、そして伝説を残し続けた。2リーグ分立前の最終年となった1949年には、137試合全試合に出場して187安打、142打点、46本塁打、打率.332という驚異的な数字で、チームは6位に終わった中で、その年の最高殊勲選手(現在で言うMVP)を獲得した。 |