34人目 前岡勤也 プロでは花開かずも 昔も今も変わらぬ好人物[12.5月号掲載] |
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前岡勤也(旧姓井崎)さん。私の二年先輩にあたる。誰もが認める超高校級のサウスポー。当時の野球好きの人であれば知らないファンはない。和歌山は名門・新宮高から阪神タイガースへ。全国大会で甲子園球場を大いに沸かせた逸材。入団した年の背番号"18"俗に言うエースナンバーをつけたことだけで、その期待の大きさがよくわかる。好人物だった。よく声をかけていただいた。全身これバネといった体の持ち主。残念ながら実働八年、日の目を見ることなく九回を去っていったが、私には思い出深い人だった。 高校時代から前岡さんのピッチングを目の当たりにしている。一年生の夏だった。バッティング投手など、甲子園大会に出場したチームの手伝いとして同行していた。そして、この年の準々決勝だったか、準決勝だったかは定かではないが、新宮―中京の直接対決が実現。ネット裏からじっくり見せていただいた。物凄いピッチャーだった。さすが高校球界ナンバーワン。右バッターの内角を鋭くえぐるストレートの威力は十二分。頭の上から大きく落ちるドロップの切れには角度がある。見ていて中京が勝てるとは思わなかったが、そこはクセ者。バント攻めあり、足を絡ませた攻撃ありで前岡さんをかきまわして攻略した。 タイガースへ入団すると、その目の前に前岡さんが居る。初めて姿を見るわけではない。何となく親近感を抱いて、即挨拶に行った。快く挨拶に応じてくれたし、いろいろ声をかけてくれるようになった。その中には『本間よ……。中京って、凄い野球をするよなあ……。あれも野球には違いないが、ちょっとやりかたがずるいな』高校時代のあの戦いを皮肉る発言もあったが、顔は笑っている。ジョークもよく口にする人のいい人。時には『今晩メシ食べに行くから予定しておけよ』とも―。食事をしたあとは一杯飲みに行くのがあたり前。なかなかの社交家でもあった。 私が入団した年のシーズンオフ。こんな声もかけてくれた。『一度、家(実家)へ遊びにこいよ。実家でさあ、餅つきやる言うとるから、どうや』二つ返事でついて行った。並木さんと二人でお邪魔したが、出身高からして、実家はてっきり和歌山だと思っていたら、なんと三重県だった。楽しい餅つきだった。よくつき、よく食べたりしたが、その時のことでいまだに忘れられない味と遭遇した。大根おろしで食べた餅である。つきたての餅を契って、沸騰しているお湯の中に入れて柔らかくし、醤油で味をつけた大根おろしで食べる。なんと美味しいことか。その味が忘れられず、私も子供達が大きくなって、実家で子供達と一緒に餅つきをする機会が訪れ、何が何でもあの味を、と思って食べてみたがやっぱりうまい。その場でも大好評。後も何年か続いた餅つきで、大根おろしの餅を食べない年はなかった。 大根おろしの餅は、前岡さんの遺産としていまだ我が家に残っているが、残念ながら前岡さん、野球で期待に応えることはできなかった。実働八年。阪神で四年と中日で四年。最後三年間は打者に転向して新たなスタートを切ったが、その後も芽が出ることはなかった。鳴り物入りで入団した。それだけにまわりの目は厳しい。ある事、無い事いろいろ詮索された、いいことは書かれない。ストレスは溜る一方だったと思うが、それでも、いつも明るく振舞う前岡さんを見ていると気の毒だった。一軍での公式戦の勝利は、昭和三十四年九月二十二日の対大洋戦で挙げた一勝のみ。見事な完投勝利で、やっと花を咲かせるときが訪れたかと期待された。この年は、登録名を井崎から前岡へと改名した。背番号も18から48に変更した。ウエスタン・リーグではチームの柱として活躍。同リーグの優勝に貢献した。目の色が変わっていた。何か期するものがあったのだろうが、結局あの一勝だけで終わってしまった。 我々見ていて『こんな素晴らしい体の持ち主が何故……』と思うことがあった。前岡さんの体は"全身、これバネ"といったらいいのか、贅肉は全くない。足も実に速い。練習の時、一緒にランニングをしようものなら、こっちが惨めになる。全然ついていけない。横を向いて『何しとんねん。早ようついてこんかい……』と遊ばれるしまつ。世の中にこんなに速い人がいるのかと感心するばかり。最近では、三重県は四日市のボウリング場に勤められていたと聞く。年に一度のOB会にもよく顔を出された。こんな時も『おう、本間ー。元気か……』いまだに声をかけてくれる、今も、昔も全く変わらない人。そうだ、昨年のOB会では姿を見なかったが、今年は楽しみにしておこう。 さて次回は、前岡さんと同年代で、タイガースにあって球団初の新人王に輝いた故・西村一孔さんにスポットを当ててみる。 |
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●前岡勤也 1937年8月13日、三重県亀山市出身。和歌山県立新宮高校時代、夏の甲子園で2年連続の活躍を見せ、プロ球団の激しい争奪戦の末、大阪タイガースに入団。この時の登録名は「井崎勤也」。大きな期待を背負ってプロ入りしたものの、「前岡」姓に登録変更した1959年に挙げた1勝が唯一の勝利となった。1961年からは中日でプレー。野手に転向後の1964年には51試合に出場するも、同年限りで引退した。 |