28人目 山本和行 〝1985〟歓喜のシーズン リリーフエースを襲った不慮の事故[11.11月号掲載] |
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〝40〟セーブポイント。この時点では球界最多の記録を達成して、最優秀救援投手賞に輝いた。1982年、私がフロントマンとして阪神タイガースに復帰した年だけに印象深い。山本和行氏は、この年からリリーフに活路を見出し、救援勝利14。セーブ26を挙げてのタイトル。チームでも最多の15勝をマークするなど、投手陣の柱として活躍した。実働17年。通算で700試合に登板して、116勝、106敗。190セーブポイント。実に素晴らしい実績の持ち主だが、何故か・・・。同氏には申し訳ないが、思い出すのはあのアキレス腱断裂。大ケガをした時のことだ。 1985年、チームが日本一に輝いた年だった。9月4日。場所はナゴヤ球場。優勝争いは正念場を迎えていた。対中日20回戦。ホテル出発は通常通りだった。球場に着いて練習が始まった。投手陣はいつも通りのランニングを行っている。我々はベンチで報道陣を相手に雑談していた。普段と何ら変わりのない光景の中、チーム内に突然衝撃が走った。山本氏の左足を激痛が襲っていた。歩けない。助けを借りてベンチへ帰ってきたが顔色はない。重傷は目に見えている。中西との二枚ストッパーの一枚が戦列を離脱する可能性は大。確かにこの年のタイガースはバース-掛布-岡田の強力クリーンアップを中心にした打線のチームだったが、山本、中西の両投手が居てこそ優勝争いをしていただけに、ショックは大きかった。 救急車のけたたましいサイレンの音が近づいてくる。球場に到着した。ストレッチャーを押して救急隊員がベンチ裏へ。気丈な男だが、痛みと悔しさからにじみ出ている眉間のシワは消えない。当時の猿木チーフトレーナーと共に、私も救急車に同乗した。生まれて初めての救急車を体験した。何の関係もなく街中を走る救急車は、信号など無視。羨ましくも思っていたが、いざ自分が乗ってみると、とんでもない。サイレンは鳴らしているものの、赤信号を突っ切る時は横から大型車が飛び出してこないか、気になってしかたない。というより怖い。 山本氏の左足が木になる。社内は終始『・・・・・・』無言。同氏のやるせない表情を見ていると気の毒でしかたない。重苦しい雰囲気がただよう。早く病院に着いてほしいが、気のせいか結構時間をかけて走った。やっと病院に到着して診察。結果は最悪だった。『左足アキレス腱断裂』当然だろう。いくら気丈な男であっても、さみしさは隠せない。 リリーフエースの故障である。スポーツ紙にとっては大ニュース。血相を変えて追いかける気持ちはわかるが、大きなショックを受けている故障者を容赦なく撮りまくるカメラマンが腹立たしい。少しぐらいは気遣いができないものかと思うが、この写真が山本氏の助けになるとは皮肉なものだ。あくる日、ワンボックスカーをレンタルして帰阪した。当時、サブマネージャーだった峯本現管理部長が運転。私が助手席に。後部座席に同氏とチーフトレーナーが乗り込み、ホテルの地下駐車場を出発した。名古屋から名神高速を走って阪大病院へ直行。予定通りの行動だったが、驚いたことに、同病院の主治医が車の到着を出迎えてくれていたのだ。まず、あり得ないことである。 何事かと思って話を聞いてみると『固定しているギプスの角度が悪い』という。その日のスポーツ紙に載った写真を見て心配してくれていた。我々には腹立たしかったカメラマンが撮った写真が役に立った。餅は餅屋といおうか、さすがその道のプロ。主治医の眼力には頭が下がった。即ギプスを取り替えた。もう山本氏の顔色は元に戻っていた。『こうなった以上、じっくり治すしかない』と語っていたが、反骨精神旺盛な男だ。口とは裏腹にやはり表情は固い。ましてや、チームは優勝争いをしている。今まではその戦場の中心に居た男だ。それが・・・。かなわぬ願いとなってしまった。 ユニホームは着ていない。複雑な心境だったであろうが、リーグ優勝を決めた試合には松葉杖をついて神宮球場のベンチ裏にいた。その後の日本シリーズも同行した。球団の計らいには『うれしいね、ありがたいですね』と素直に感謝していたが、しっかり自分を見つめた理論派。独特の考えも持っていた。『一塁が空いているなら、自分がいやだと思うバッターは歩かせていい』それが逆転となる走者であってもいいという。すべてが計算通り。理詰めで攻めていくピッチングは、きっちりした性格そのまま。見ていて気持ちいいし、圧巻だった。口数の少ない男だった。ゴルフ大好き人間。腕前はシニアのプロテストを受けようかというほど。背番号は実働17年間、一度もかえることなく〝25〟番。現在は新井貴浩選手が背負っているが、私の中にしっかりとその番号が焼き付いているのは、プロ入り初勝利をサポートしてくれた山本哲也さん。いろいろ思い出してみたい。 |
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●山本和行 1949年6月30日生まれ。広島県出身。左投げ左打ち。広島商業高校から亜細亜大学を経て、1971年のドラフト1位で阪神に入団した。入団初年度から一軍で活躍し、5年目の1976年には主にリリーフとして67試合に登板。先発に転向した1980年には15勝をマーク。再びリリーフに戻り、1982年と1984年には最優秀救援投手賞を受賞する活躍を見せたが、1985年シーズン終盤にアキレス腱断裂という致命的なアクシデントに見舞われた。それでも翌年には見事復活し、49試合に登板して11勝3敗。オールスターゲームにも出場し、この年の連盟特別賞を受賞した。結局、現役時代は阪神一筋で17年間、その左腕でチームを支え続けた。 |