32人目 田宮謙次郎 あと一人で逃した 球界初の〝完全試合〟[12.3月号掲載] |
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その人は、十年目のベテラン選手。セントラル・リーグの打撃ベストテンに連続して顔を連ねる実績の持ち主。片や私は、高卒でピッカピカの一年生。おいそれと声をかけられる立場ではない。同じチームで、仲間として同じユニホームを着ていながら、親しみを持ってお話をするなんてとんでもない。まだ、まだ縦社会の時代。先輩、後輩の秩序は厳しい。特にはじめのうちなど『お早ようございます』『こんにちは』『お先に失礼します』といった、日常の挨拶をするのが精一杯。相手はこのシーズンもベストテンのトップをひた走る、故・田宮謙次郎さん。大先輩と若造。何やら声をかけていただいたことはあるだろうが、緊張のあまり全く覚えていない。 突然の移籍。まさかの出来事。首位打者のタイトルに輝いたというのに大毎(現ロッテ)へ―。契約更改で、参稼報酬の面で折り合わなかったという。当時、我々みたいな若造の知るところではなかったが、昭和二十七年から野球協約に定められた〝A級十年選手〟の特権(移籍の自由)を行使してタイガースを退団した。チームに愛着を持つ田宮さんは、何度となく球団と折衝を重ねてきたが、同年、十二月二十七日大毎入りの意思表示をした。結局、田宮さんとは同じユニホームを着ている間には親しくなれなかったが、昭和六十三年にヘッドコーチとしてタイガースへ復帰されるなど、OB会長を十八年間歴任。ごく自然にジョークを言い合えるまでになった。 田宮さんをイメージする。即、頭に浮かんでくるのは〝功打者〟である。ピッチャー・田宮をイメージする人は数少ない。ところがである。大学(日大)時代投手だったこともあり、左投手が希薄だったチームの救世主として獲得していたのだ。期待に応えた田宮さん。入団した年は11勝をマークしている。のちに肩を痛めてバッターに転向したが、投手として語り種になっているのが、二年目のシーズン、倉敷球場で行われた対国鉄(現ヤクルト)戦である。 先発した田宮さん。持ち味の鋭く切れるカーブを武器に快調なピッチング。相手バッターを寄せつけず、九回二死まで無安打、無四球、ひとつのエラーもなく〝ピタリ26人〟何とパーフェクトピッチングである。投球数はここまでわずか86球。今時のファン気質なら、球場は『あと一人、あと一人』のコールで沸きあがっているところだが、半世紀も前の話である。ここまで書いたら結果はおわかりだろうが、許したヒットの悔やまれること。カウント1-2からの四球目だった。相手バッターが、セーフティーバントの構えをした。これを見た三塁手の藤村さんは猛然とダッシュする。ツイてない時はこんなものか…。チョコンと出したバットに当たった打球は、前進してきた藤村さんの後方にフラ、フラッとあがってヒットになった。定位置に守っていれば完全なイージーフライ。本当、悔やまれてならないヒットだった。 『あの時はなあ。ヒットを打たれるうんぬんより、四球を出すほうがいやだった。まあ、悔しかったのは事実だけど、これも人生やろう』こんな話をしてくれたことがあったが、もうひとつ悔やまれることがあった。田宮さんのこのピッチングが3月である。同じシーズン6月。巨人・藤本英雄さんが記録した完全試合が、日本プロ野球界の第1号だっただけに、球史に残る田宮さんの快挙は、あの当たりそこねの汚いヒットで、水の泡となって消えてしまった。 〝バッター・田宮〟はあまりにも有名。プロ入り後肩を痛めての転向だったが、日大時代東都大学リーグでも首位打者に輝いている。昭和22年の秋、40打数、17安打、打率・425のハイアベレージでのタイトル。元々バッターとしても素晴らしい素材の持ち主。現役在籍15年のうち、打者として12年活躍したが、うち、7シーズン3割をマークした。実績を買われて中日、東映(現日本ハム)、でコーチや監督を経験しているが、出身地の茨城県下館市で市会議員も歴任された人。昔人間、歯に衣着せぬ発言も売り物。OB会長に就任されてからも、野村元監督がOB会に出てこないと『監督がOB会に出席しないとは何事か―』と怒り心頭。同監督に直談判する一幕もあった。この時、広報担当をしていた私の、監督への連絡ミスがあったことを伝えると、『お前は関係ない』と益々怒り出すしまつ。一旦言い出したらとまらない人だった。 チームを語る時は容赦なし、タイガースを愛し、チームが強くなることを願っていたからこその発言。私もOB会の委員をしていたが、球団職員の一員であり、広報担当をしていただけに、田宮さんの言動には気の休まるところがなかった。この田宮さん、バッターに転向した時大減量するなど、野球に取り組む姿勢は凄かったとのことだが、私が見た中で感心させられたのは、藤本勝己さんである。 |
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●田宮謙次郎 1928年2月11日、茨城県下館市(現・筑西市)に生まれる。左投げ左打ち。下館商、日大を経て1949年、投手としてタイガースに入団。初年度は11勝(7敗)を挙げるも、肩を痛めて1952年から野手に転向。1959年に大毎に移籍するまで打率3割以上を4度マーク、1958年には首位打者を活躍するなど中心打者として活躍した。1963年の現役引退後は、東映監督、中日、阪神でコーチを歴任。台湾プロ野球でも監督を経験した。1984年~2001年、阪神タイガースOB会長。2000年、下館市議会議員に当選。2002年には野球殿堂入りも果たした。2010年5月5日、82歳で逝去。 |