6人目 中西 太 逸話の枚挙にいとまがない怪童の意外なイメージ [09.9月号掲載] |
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私が、西鉄ライオンズへ移籍したときの監督。後にはタイガースのユニホームを着て指揮を執った人。中西太さん。入団した当初は怪童と呼ばれ、高校から入団していきなり12ホーマーを放つなど、打率も.281の好成績で新人王に輝いた。持ち味は長打力。ホームランにまつわる伝説はたくさんある。四年連続を含め五度、ホームラン王のタイトルを獲得した実績の持ち主。ショートがジャンプして捕球しようとした打球が、そのまま左中間スタンドに突き刺さったとか。平和台球場(福岡)の外野席場外にある、木によじ登って野球観戦をしていたファンの顔の動きで、打球がそのファンの頭上を越えていく大ホームランだったのが分かった。など、とんでもない逸話は尽きないが、怪童からくるイメージとは結びつかない数字が残っていた。 『チームの記録だけど、俺の記録を破る選手がなかなかでてこんのや』中西さんの話である。耳にした瞬間は、てっきりバッティング面にまつわるものだと思った。なにしろ、首位打者二回、本塁打王五回、打点王三回のタイトル保持者。誰も同じことを考えたと思うが、それがなんと“盗塁数”だと言う。身長が174センチ、体重は93キロの体型だ。信用しかねる話だったが、記録をひもといてみてビックリ。入団した年(1952年)から16、36、23、19、15、15。六年連続して二桁盗塁をしているではないか。通算で142個。1953年の“36”がその記録だが、この年、打率.314、本塁打は36本放っており、わずかな選手しか記録していない“トリプルスリー”を達成している。 ちょっとテレながら、ジョーク交じりに明かしてくれたが、どうして、どうして。これは自慢に値する記録だ。中西太さん。名は体を現すという。まさに典型的な人。野球の好きな年配者であれば、よくご存知の方はおられると思うが、現在の現役選手で想像すると、西武のおかわりクンこと、中村剛也選手タイプ。だから、盗塁のイメージは全く沸いてこないが、半面、当時を想像すると、その巨体を揺すっての走塁だ。スピードに迫力が加わる。スリル満点。見応えのあるプレーだったに違いない。『俺もなあ、若いころは結構速かったんや』そう言われても、私が西鉄へ移ったのが1966年。もう、バリバリ走っていたころの面影はなかった。人は見かけで判断してはいけないということが、そして、やっとこの記録が破られたのが1987年。現ソフトバンクの秋山幸二監督が、西武時代38個を決めて追い抜いた。何と、三十四年間も記録を保持していたことになる。私が出会ってからの中西さん。どう考えても不思議でならない。 太さんと盗塁。なかなか結びつかないとこが面白いが、持ち味である、本来のパワーヒッターならではの打球に直面したこともある。練習ではよくバッティング投手をした。タイガース、ライオンズ両チーム十年間の選手生活で、相手にしたバッターは数え切れないほどいるが、こんなに恐ろしい人と対したことはなかった。当時の同氏、選手兼任で監督をしていた。スタメンから出場することはあまりなかったが、代打では結構あった。当然バッティング練習はする。バッターボックスに立つ。一本、二本と打ち始める。さすがパワーヒッターだ。ヘッドスピードの速いこと。投げた球が外角へ行こうものなら、バットのヘッドが返り、必ずと言っていい、打球は投手を強襲してくる。まだ防御用のネットなどない時代。インコース寄りに投げておけばいいのはわかっているのに、球は意に反して外角へ行くことがある。何度肝を冷やしたことか。本当に怖かった。 私、中西さんには大変お世話になった。七十歳になったいまなお、こうして大好きな野球に携っておれるのは同氏のお陰。西鉄ライオンズに在籍したのは二年だけだったが、退団する年、新聞記者への道を開いてくれたのが中西監督。そして、西日本新聞の運動部で出筆していたから『選手と記者の両方を経験したヤツ』ということで、広報担当として再び阪神タイガースに復帰することができた。いまだにグラウンド等で顔を合わせると、必ず声をかけてくれる。いつまでもお元気でいてほしい人。 その中西さんが西鉄ライオンズ黄金時代の中心打者なら、投手では昨年若くしてお亡くなりになった故・稲尾和久さんだろう。次回は神様、仏様とは思えない一面を・・・・・。 |
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●中西 太 1933年4月11日生 1952年、西鉄ライオンズに入団すると、1年目から好成績を残して新人王を獲得。その後も首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを多数獲得し、1950年代後半の西鉄黄金時代の中心打者として君臨した。 |