42人目 王貞治 世界のホームラン王に打たれたあの一本[13.3月号掲載] |
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868本―。ご存知、世界のホームラン王・王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)が積み重ねた本塁打の数である。同会長とは同じ釜の飯を共にしたことがない。交遊録登場に疑問を感じる人もいるだろうが、何を隠そう、実を言うと、大記録樹立の記念すべき一発を浴びているのだ。私、プロ野球界で十年間ユニホームを着てきたが、球史に残る記録など何ひとつ残していない。ただ……。大きな声では言えないが、唯一、燦然?と輝いているのが同会長の日本球界初という、一試合、四打席連続ホーマーの四本目、そう、最後を締め括ったのが、私、本間でした。 1964年、5月3日の憲法記念日。世の中祭日で、お客さんは満員の後楽園球場。試合は伝統の巨人―阪神戦。私がマウンドに上がった時は、6点のビハインド。勝敗はすでに決まってからの登板だったが、スタンドの雰囲気は熱気で燃えあがっていた。打席には、3打席、3ホーマーを放っている王選手がいる。あの鋭い眼光。気合が入っている。打ち気満々だ。当然だろう。ここでホームランを打てば日本記録だ。初球、カーブでストライクをとった。過去、同選手にホームランは打たれていない。強気に、あげた一本足の右足を狙うピッチングが功を奏していた。ピッチング内容をかえるつもりはない。 『三本も打っていたら、もう打ち止めやろう』ベンチを出る時、偉そうに、こう、うそぶいてグラウンドに出た。二球目、三球目。いつも通り内角を思い切って攻めた。少しずつコースをはずれた。二ボール、一ストライク。カウントを悪くしてしまった。ここでひと呼吸おいた。『もう一球内角を攻めるか。それとも外角を狙うか』結論は無難な外角球を選んだ。四球目のストレート。狙ったところよりやや内側にはいった。乗りに乗っている王選手が見逃すはずがなかった。 バットの真芯。やや上っ面。打球が一番よく飛ぶポイントでとらえていた。瞬間、それ(ホームラン)とわかる一打。マウンドで両ヒザに手をつき、打球は追うまでもなかった。ライナー性の打球は右中間スタンドに突き刺さっていた。文句無しの一発。何の悔いも無い。一本足打法の完成。ホームランバッターとして、日の出の勢いの同選手と、少々落ち目で、以前より球に力が無くなってきた私との差が、はっきり出たシーンだった。数年前、読売新聞に掲載されていた、時代の証言者で、王選手のこんな談話を読ませてもらった。 『四打席目の時、阪神の藤本監督(故人)がマウンドに足を運んだ。強気の藤本さんは攻めてくるはず。攻めてくれば打つ自信はある。本間さんの球はとても速く、ホームランにしやすい。初めてホームランを意識して打った』 当然だろうが、ホームランしか頭になかったようだ。凄い集中力に頭が下がった。あの時、監督(藤本さん)が何を言いにきたかはよく覚えていないが、私自身には雑念はなかった。頭の中には、"勝負"の二文字しかない。帰宿してから『歩かせたら(四球)よかったのに……』私を励ますつもりで声をかけてくれた人がいたが、自分では勝負したことに悔いはなかったし、ショックなどのかけらもなかった。けっきょく、生涯で王氏に打たれたホームランは、この一本だけだったが、ユニホームを脱いでからも、この一発は時々思い出したりする。その時に思うのは『勝負してよかった』である。歩かせたならば、王会長に合わせる顔がない。いまだ悔いを残していたに違いない。 あの場面の話をする機会はなかった。昨年甲子園球場で行われたT-GのOB戦。あの一本足打法を見て当時を思い出したが、もう現役時代の鋭い眼光はない。ニコやかな笑顔を見ていると、まさしく"好好爺"の域に達してきた感さえする。顔を合わせると柔和な笑顔で挨拶してくれる。そういえば、バリバリの現役時代、ホームランの世界記録を樹立した直後に阪神戦で甲子園球場にきた。ホヤホヤの"世界の王"である。サインと求める関係者があとを絶たない。試合前である。業を煮やした球団がサインの規制をした。当時、新聞記者だった私。サインを求めてはいけない立場にあったが、王選手が一人ベンチ裏に居る。チャンス到来だ。違反は承知の上で色紙を持って訪ねて行った。 安心した。笑顔だった。何のわだかまりもなく、気持ちよくサインに応じてくれた。ふと思った。果たして半世紀前のあの場面で歩かせていたら……と。いやいや、そんな小さな人ではない。やっぱり、"世界の王"である。さて次回だが、脇道に逸れたついでに憧れの人・杉下茂さんで――。 |
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●王貞治 1940年5月20日生まれ。早稲田実業から1959年に読売ジャイアンツに入団。「一本足打法」を完成させた1962年から13年連続で本塁打王を獲得するなど、5歳年上の長嶋茂雄氏とともに「ON」としてジャイアンツの黄金時代を支え続けた。1964年に記録したシーズン55本塁打は日本タイ記録、通算868本塁打は言わずと知れた世界記録で、1977年には初の国民栄誉賞が授与された。1980年に現役引退後、助監督を経て1984年から巨人で5年間の監督生活を過ごし、1995年からは福岡ダイエー・ソフトバンクで14年間にわたり監督を務めた。2006年、WBC監督として日本代表を第1回大会の優勝に導くと、2008年にソフトバンク監督を退任。その後は球団最高顧問に就任(現在は同会長)した他、読売巨人軍OB会会長、名球会理事長などを兼務し、2010年には長年の野球界への貢献から文化功労者として顕彰された。獲得タイトルは三冠王3回、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回など。選手としての通算成績は22年間で2786安打、868本塁打、2170打点、打率.301。監督としての通算成績は19年間で1315勝1118敗74分、勝率.540。 |