現在、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏。1958年にタイガースに入団し、10年にわたる選手生活の後、新聞記者に転身。その後タイガースのフロント入りし、球団広報部長などを歴任、約半世紀にわたってタイガースを見続けてきた。そんな本間氏が出会い、触れ合ってきた人々を中心に、その中から生じた話題や感じ取った事柄、脳裏に焼き付けられた出来事などを綴っていく。
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本間勝
1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガースの営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。
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[14.10月号掲載]
60人目 加藤博一
人を引き付ける
天賦の才を持つ“宴会部長”
『本間さ〜ん。おはようございま〜す』背中越しに聞き慣れた声がする。振り向いてみる。いつもの人懐っこい笑顔を見せて近づいてくる。その姿には、ついこちらもニンマリしてしまう。『久しぶりです。相変わらずお元気そうですね』愉快な男だった。賑やかな男だった。実に明るい性格だった。加藤博一氏。あまりにも早いお迎えには驚きと寂しさが入り交じって複雑な心境だったことを思い出す。頭の回転がいいのに加え、舌の回転も滑らかな人。どこに居ても、ジョークがポンポン飛び出してくる。同氏がかもし出す雰囲気と、言動からくるイメージで“宴会部長”のニックネームをつけられたほどのキャラ。
おまけに、何をやらせても器用にこなす。ユニホームを脱いでからは、野球解説者は当然のことだが、物おじしない、愉快なキャラの持ち主は、時にはタレントとしてテレビやラジオで活躍。元々達者で頭の回転は速い。一緒に出演しているタレントを食ってしまうひと幕もあったほど。そして、タイガースのOB会では、毎年ゴルフコンペを開催しているが、律儀な同氏は、亡くなる前の数年、毎年東京から遠路はるばるやってきて、参加するだけにとどまらず、コンペ終了後のチャリティーオークションの主役もこなしていた。総合司会である。同会の役員から声がかかれば、ふたつ返事で壇上にあがる。得意の軽妙なトークで参加したゲストを大いに笑わせ、ユニホーム、バット、選手のサイン入り写真などを競売にかけていく。
『オッチャン……。声をかけるとがちょっと早かバイ』佐賀の出。時には九州弁も交えるなど『今度は素晴らしいタイミングや』ゲストとのかけ合いは抜群。そうかと思えば『お客さ〜ん。そんな高い金額で競り落として大丈夫ですか……。家に帰って奥さんに怒られませんか』場内は笑いの渦。見事な司会ぶりでOB会が持参した売り物は完売。それだけではない。営利団体ではなく、貧乏なOB会に気を遣って、ゴルフコンペを協賛していただけるスポンサーまで紹介してくれた。一年や二年ではない。何年も協力してくれたスポンサーと、加藤氏には大いに感謝しましたね。本当、あのおおらかなキャラ。広範囲の人付き合いはOB会にも貢献してくれました。
律儀な面だけではない。常識人であることを実感した。大洋へのトレードが決まった年だった。昭和五十七年オフの出来事。トレード通告等で球団事務所に来社していた時。『本間さん』同氏が改まって、真面目な顔で私を呼んだ。滅多にない事で、こちらもついマジで『どうしたんや』と聞き返していたが、中味は何てことない質問でした。『今年も球団主催のオーナー杯(ゴルフコンペ)はありますよねえ。もう、トレードは決まったんですけど。僕なんかも参加していいですかねえ』だった。タイガースはそんなに冷たい球団ではない。七年間も在籍した選手だ。『どうぞ、どうぞ。大手を振って参加してくれよ』の返事に笑顔で『どうも、ありがとうございます』と礼を言って帰って行ったが、結局は顔を出すことはなかった。後日その訳を聞いて加藤氏を見直した。『やっぱりダメでしょう。これから敵になる人間ですから―』宴会部長のイメージが強い。何事にもあまりこだわらない人物かと思っていたが、勝負の世界で生きる男の常識を持った選手だった。
『野球に感謝』の気持ちを持ち続けていた。そして『野球を通じて、いろいろな人と巡り合えた』のが財産とも―。人との接点はただ野球をやっているだけで生まれるものではない。一軍で、桧舞台で活躍し、加藤博一の存在をファンに認められてはじめて人は近付いてくるし巡り合いがある。同氏、昭和四十五年に西鉄に入団したが、なかなか日の目を見ることがなかった。まずは一軍定着が条件になる。その土台を築いたのも人との巡り合いがあったからだ。きっかけは阪神移籍。西鉄ライオンズの大先輩・中西太さんとの出会いが加藤氏の野球人生を大きく変えた。
その年(昭和五十五年)打率三割一分四厘でベストテン五位。三割バッターの仲間入りをした。バッティングの指導に関しては定評のある中西さん。『とにかく、バットを徹底的に振らせたが、彼もグチひとつこぼさずようついてきたよな』と努力を認めた。本人の『中西さんに会えたのが、僕の野球人生を変えてくれました。本当、感謝しています』こんな話をよく聞いた。教える人と、教えられる人の歩調がピッタリ合った一例だろう。こうした節目、節目でいい人と出会えたのは、同氏にそういう人を引き付ける力があったからだ。大洋に移籍した時は近藤監督との出会いだ。高木豊氏、屋鋪要氏との三人で“スーパーカートリオ”が誕生した。命名は同監督。三選手の足は各チームにとって脅威だった。もし、プロ野球界に流行語大賞があったなら、間違いなく大賞に輝いていたでしょう。さて次回、佐野仙好氏にスポットを当ててみる。
列伝その60
●加藤博一(かとう ひろかず)
1951年10月9日、佐賀県多久市生まれ。佐賀県立多久工業高等学校から、1969年のドラフト外(テスト入団)で西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に入団。しかし西鉄(太平洋クラブ)での6年間で一軍出場は3試合にとどまり、1976年、タイガースにトレード移籍した。タイガースでは移籍3年目の1978年から徐々に出場機会を増やし、1980年には112試合に出場、打率.314、34盗塁の好成績を残し、レギュラーとして活躍。そのキャラクターでファンからの人気も高かったが、1983年大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)にトレード移籍。大洋では「スーパーカートリオ」の一員として旋風を巻き起こした。1990年限りで現役を引退した後は、野球解説者、タレントとして活躍していたが、2008年1月21日、肺がんのため56歳の若さで逝去。2008年4月12日の横浜vs阪神(横浜)では、「加藤博一氏追悼試合」が執り行われた。