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本間勝交遊録
現在、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏。1958年にタイガースに入団し、10年にわたる選手生活の後、新聞記者に転身。その後タイガースのフロント入りし、球団広報部長などを歴任、約半世紀にわたってタイガースを見続けてきた。そんな本間氏が出会い、触れ合ってきた人々を中心に、その中から生じた話題や感じ取った事柄、脳裏に焼き付けられた出来事などを綴っていく。
本間勝
1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガースの営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。

[13.4月号掲載]
54人目 石川 緑
1964年の胴上げ投手 皆に慕われた“エエ恰好シイ”

 大阪弁でよく使われる“エエ恰好シイ”―。そんな一面を持った人だが、気障な人ではない。要領を得た立ちまわりのできる人でもない。いつも笑顔の好人物。何をするにしても悪気はない、おもろいオッチャン。故・石川緑さん。1964年のリーグ優勝時には、最高勝率投手に輝いたサブマリン。性格、身のこなしともおっとりした選手。ピッチング以外、ひとつ、ひとつのプレーは、どちらかといえば不器用なタイプなのに、決して弱音を吐かないところにギャップがあって慕われた人。いかにユニークだったか。お陰さまで、そのミドリさん(現役時代の呼び名)のぎこちないプレーが巻き起こした、ゲーム再開不可能となる前代未聞の大騒動を身をもって体験させてもらった。
 ミドリさんを思い出すと、球場のネット裏にある狭い一室に閉じ込められ、帰るに帰れなくなった試合が頭に浮かぶ。1964年6月30日。広島市民球場での対カープ15回戦だ。マウンド上は例の石川投手。二回裏無死走者一、二塁。バッターは後に広島の監督、球団代表にまで上り詰めた阿南(準郎)さん。バントした打球は投前の飛球。問題は直後の同投手のプレーだった。トラブルを招いたのは直接捕球か、間接捕球か。ミドリさんの動きが機敏で、守備のうまい人なら審判団も迷うことはなかったと思うが、ぎこちないプレーはアンパイヤーの目まで狂わせてしまった。本人は胸を張って言った。『ちゃんとノーバウンドで捕ってるよ。アンパイヤーはどこを見てるんや』と―。例の“エエ恰好シイ”が顔を覗かせ、ジェスチャー入りの説明。本気で文句を言うところがミドリさんらしい。
 本人は直接捕球を確信している。スタートを切っていた走者を見て、一塁ベースカバーに入っていた二塁手の鎌田(実)さんに送球。鎌田さんは二塁ベースカバーの遊撃手・吉田(義男)さんに転送した。トリプルプレーの成立―。と思いきや、球審の判定は間接捕球だった。藤本監督が激怒した。即座にベンチを飛び出して猛抗議する。元々が天邪鬼。一旦言い出したら後に引かない人。物凄い剣幕。球界最長老の勢いに圧倒されたわけではなかろうが、審判団が一度集まって、協議して出した結果の判定が直接捕球に覆っていた。事態は益々悪化していく。アンパイヤーの不手際。再度出してきた妥協案が『一死一、二塁での再開』だった。もう広島側も引き下がれない。すったもんだと二時間半が経過する。
 ファン無視もいいところ。そりゃあ、お客さんは怒るよな。一人、二人。とうとうグラウンドへなだれ込み出した。当時の広島ファンは怖かった。ある時など、逆上したファンがライトスタンドから、ドスを片手に飛び込んできたことがある。次から次へと千人以上。もう収拾がつかない。ついには機動隊が出動して、その場のトラブルは何とかおさまったが、3連戦の初戦に起こった出来事。放送室が破壊された。バックネットの一部が剥ぎ取られるなど、一試合も消化しないまま帰阪。実に珍しい処理がとられた。あくる日、広島駅にミドリさんの姿があった。『ミドリさん……。本当のことを言ってよ』正直な人。意外な返事を期待してジョーク混じりに、前夜のプレーについて聞いてみたが『何言うとんねん。ノーバウンドに決まってるよ』怒られてしまった。
 大笑いした。こんなエピソードも……。これエエ恰好シイというより、お茶目なミドリさんかな。いや、いや、やっぱりエエ恰好シイ、やな。あの人、右側頭部に一円玉ほどのハゲがあった。そんなに目立つわけではないが、意外に気にしていたのが本人。帽子ではどうしても隠れない。ある日、マジックペンを片手に若い選手と何やら話している。ミドリさん、少々テレ気味の笑顔。近付いてみて実態がわかった。『オレ、今日先発やねん。テレビ放映があるからさあ、ここ(ハゲ)を黒のマジックで塗っといてくれ』本人はケロッとしていたが、気兼ねしてマジック片手に、しどろ、もどろしていたのは若手選手だった。ミドリさんのマウンドに上がる後ろ姿をみて、つい、“クスッ”と笑ってしまった。
 エエ恰好シイはまだ続く。移動日、東京へ着くとよくお出かけになった。『ちょっと一杯やってくるわあ』とニヤニヤしながら外出された。我々、部屋でマージャンをして遊んでいると、数時間して、顔を赤く染め、ご機嫌で帰宿する。そして、必ず我々が遊んでいるマージャン部屋へやってきてその日の出来事をひとくさり。『今日はよお。銀座のクラブでさあ。裕次郎(故・石原裕次郎さん)に会ってさあ。一緒に飲んできたよ。ちょっとブランデーを飲み過ぎたかな。ヘネシーをさあ。ぐいぐいやっちゃったよ。やっぱりヘネシーはうまいな』有名人、高級ブランデーの名前が出てくるところが、ミドリさんらしい。
 野球でも、決めるところではきっちり仕事をしている。優勝した年の最高勝率投手のタイトルは冒頭で明記したとおりだが、この年の胴上げ投手も石川緑だった。1964年、9月30日、甲子園球場の対中日27回戦。見事完投勝利をおさめてこのシーズン中日に5勝をマーク。トレードで出されたチームへの恩返しには満塁の笑みを浮かべていたが、我々の目の前では『相手は最下位のチームやもん。弱いね』こんなプレッシャーのかかるゲーム後でも、“本領発揮”するおもろいオッチャンだった。次回はタイガースを唯一日本一に導いた時のヘッドコーチ・土井淳さん。
列伝その54
●石川 緑
1934年5月10日生まれ。1954年に中日ドラゴンズに入団、アンダースローで1960年には13勝を挙げるなど活躍。1962年に金銭トレードで阪神タイガースに移籍すると、1964年には10勝を挙げて胴上げ投手になるなどリーグ優勝に貢献し、勝率.769で最高勝率のタイトルも獲得した。翌1965年も10勝を挙げたがその後は6勝、1勝に留まり、1968年からは東映フライヤーズに移籍。同年に現役を引退した。2004年、69歳で逝去。

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