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本間勝交遊録
現在、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏。1958年にタイガースに入団し、10年にわたる選手生活の後、新聞記者に転身。その後タイガースのフロント入りし、球団広報部長などを歴任、約半世紀にわたってタイガースを見続けてきた。そんな本間氏が出会い、触れ合ってきた人々を中心に、その中から生じた話題や感じ取った事柄、脳裏に焼き付けられた出来事などを綴っていく。
本間勝
1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガースの営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。

[14.2月号掲載]
52人目 田中義雄(カイザー田中)
二つの祖国を持つ 温厚な紳士監督

  やさしい言葉遣い。金縁の眼鏡。恰幅はいい。バシッとスーツを着こなした姿は、見るからに“ジェントルマン”故・田中義雄さん。通称、カイザー・田中氏。ハワイ生まれの日系人。1958年に就任した阪神タイガース十代目の監督である。私が入団した年、いわゆるプロ野球選手として第一歩を踏み出した時の指揮官。穏やかな性格、ゆっくりと、わかり易い指導は、ルーキーにとっては非常にありがたく、未知の世界をさまよい歩く我々を、原点から導いてくれた。
 ブルペンへ来ると、必ず口にするのが『ホンマ君―。投げる時は絶対キャッチャーミットから目を離したらダメよ。コントロールが狂うからね』だった。さすが、キャッチャー出身の監督である。リード面のことを考えると、コントロールを重視する気持ちはよくわかる。これは、ほんの初歩的なアドバイスだが、プロのハイレベルな野球を痛感する話を聞いたのも、カイザーからだった。
 この世界に入って初めて耳にするアドバイス。高校を出たばかりの私である。受けた衝撃は大きかった。ミーティングでの出来事だった。作戦面の話を聞いていた時のことだ。『みんな、よく聞いてよ。エンドランはねえ、カウントが1-3とか、2-3の場合、次に投げる球が、ボール球だったらフォーボール(四球)だし打たなくていいわけよね。だから、相手にわかってもいいのよ。逆にピッチャーにはプレッシャーになるから“走るぞ、走るぞ”と教えてやっても大丈夫ね』。思いもよらぬアドバイス。高校時代まで、サインとは、絶対相手にバレたらいけないものだと思い込んでいた。そして、よくよく考えてみると、ピッチャーの立場で受け止めた場合、高いプロのレベルを直接肌で感じた瞬間だった。もう、眠気が一気に吹っ飛んだね。
 ハワイでは、アマチュア時代から実力を認められていた人。ハイスクールのマッキンレーでは、あの伝説の人、故・若林忠志さんとバッテリーを組んでいた。その若林さんの勧めでタイガース入りしたことが、田中氏の実力を証明している。当然タイガースでも息の合ったバッテリーとして、チームの勝利に貢献した。入団した時、すでに三十歳になっていたが、年齢などものともせず初出場の試合から“四番”に座った。通算成績は447試合に出場。1619打数、400安打。打率は・247だったが、語り種になっている試合がある。
 1941年、8月10日の巨人戦だ。このゲーム、相手の先発はジャイアンツ伝説の人、故・沢村栄治投手だった。この試合、田中氏は途中からの出場だったが、三塁打2本、二塁打1本の4打数3安打を放って2打点の大活躍。延長16回、若林―沢村で渡り合った投手戦を制した。沢村投手には結構強かったと聞いた。当時の話を聞いたことがあった。『沢村…。速かったねえ。凄いピッチャーだったよ。でも、いやなピッチャーではなかったけどね』とニコやかに語ってくれたが、その笑顔、談話には紳士・カイザーの人間性があらわれていた。
 カイザーには、後々、野球とは全く関係のない、名前の件でビックリさせられたことがある。私には、まるで、この連載のタイトル“ホンマでっか…?”を地でいくような事実が浮かび上がってきた。日系人である。名前の中に片仮名が入っていても、何の違和感もないし、不思議でもない。カイザー・田中義雄であっても疑うことなく、てっきり“本名”だと思い込んでいた。ところがである。聞いてビックリ。カイザーという片仮名は、ハワイの日系人がつけた愛称だったのだ。高校、大学(ハワイ大)時代からズバ抜けた力を身に付けた凄い選手だった。そこで、当時ドイツびいきの人が圧倒的に多かったハワイ在住の日系人が、旧ドイツ皇帝にちなみ『カイゼル』を略して『カイザー』と命名して崇めたという。温厚な性格と実力を持ち合わせた人気者。同監督の現地での存在感が窺える出来事だったが、なかなか信用できず、しばらくはキツネにつままれたような心境だった。
 そして、プロ野球史上初の天覧試合で指揮を執った監督であるのも語り種のひとつ。1959年、6月25日、後楽園球場で行われた対巨人7回戦。勝負は長嶋選手(現巨人終身名誉監督)のサヨナラホームランで、残念ながら敗れはしたが、見応えのある素晴らしいゲーム内容で、いまだに語り継がれている。一発を浴びた故・村山さんは『あれはファウルだった』という自論を最後まで曲げようとしなかった緊迫した試合。当時の田中監督は『内容のある試合ができた。両陛下をおそばで拝見できたのも生涯の感激です』と語っておられたが、旧ドイツ皇帝にちなんで崇められた人。なぜか、同監督。天覧試合の指揮を執るにふさわしい人だったように思える。
 追伸、残念ながらこの時の私はファームで頑張っていました。さて次回は、同氏が座間キャンプから連れてきた外国人。マイケル・ソロムコ選手に迫ってみる。
列伝その52
●田中義雄(たなか よしお)
アメリカ合衆国ハワイ州出身の日系2世。1907年4月2日生まれ。ハワイ大学卒業後、一旦教師となるが30歳になった1937年に大阪タイガースに入団。景浦將や藤村富美男、松木健次郎といったタイガース黄金時代の猛者が並んだ打線に名を連ね、強肩のキャッチャーとして当時の投手陣をリードした。1944年にアメリカ軍に召集され退団。戦後、1958年から2シーズン、監督としてタイガースに復帰した。その後は大毎のコーチなども務めた。タイガースが初の日本一となる年(1985年)の4月10日、東京都内の自宅で心筋梗塞のため77歳で逝去。

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