[13.10月号掲載]
49人目 三好一彦
『虎の穴』の生みの親
鳴尾浜球場の正面に、黄色い大きな文字で〝Tigers・Den〟と書き込まれている。球場に足を運んだ人なら、誰もが、一度は目にしているだろう。同球場の別名である。こう命名したのは当時の球団社長・三好一彦さん。人気アニメ〝タイガーマスク〟をイメージしたもの。劇画の中では〝虎の穴〟と呼ばれていたが、野球はアメリカで産まれたスポーツ。横文字にして名づけられた。主人公のタイガーマスクをはじめ、各プロレスラーが、ワザを磨き、精神統一をはかり、キズを癒したりする秘密の場所。タイガースとしても、若手の成長を願って新設した鍛練の場。体力の強化、技術の向上等、心、技、体を鍛えるため、あの強靭なタイガーマスクにあやかろうと命名した。
三好社長の狙いは、プロの世界の厳しさを注入するためだった。若い選手がひた向きに、自分で自分を鍛えるところ。合宿所がある。グラウンドがある。室内練習場はあるし、トレーニングルームもある。本人がその気になれば、いつでも野球ができる申し分ない環境だ。本当、今の選手は恵まれている。この施設を築くにあたっては、当然、当時社長だった三好さんが中心になって、建設の指揮にあたっていたことは間違いない。そのタイガーデン、1994年に完成したが、ホッと一息つく間もなく、翌年の一月、阪神・淡路大震災にあい、グラウンドが一部沈下する被害が出て大変だった。
厳しい時の球団社長だった。就任中に夢はかなわなかったが、タイガーデンで育った選手の活躍で2003年、2005年にリーグ優勝した。井川が育った。藤川も育った。関本がいて濱中がいた。能見も育った。今年は大和がレギュラーポジションを確保した。三好さんも喜んでおられると思うが、物腰の柔らかい人だった。言葉遣いの丁寧な人だった。我々社員に声をかけるときも、その人を呼び捨てにすることはなかった。なかには『オレは社長だ』の態度を見せつける人もいたが、さすが上に立つ人。自らをおごることはなかった。灘高-神戸大の出身。頭脳明晰。エリートコースを闊歩して阪神電鉄の専務にまで上り詰めた人。学生時代には野球部に所属するスポーツマン。だから、いまだに野球が大好き。もう退社して十五年以上になると思うが、甲子園球場だけに留まることなく、鳴尾浜球場にも顔を出す。それどころか、少年野球教室の手伝いもしているらしい。まだまだお元気だ。
チーム作りにも力が入っていた。キャンプ施設を良くするための要望はよく聞いていただいた。安芸キャンプを担当していた私。ネット裏本部席の拡大、バックスクリーン裏の倉庫の新設、ベンチ横ロッカーの新設。ブルペンの移設等々、数々の無理なお願いをしたが、すべていい返事をいただいた。それは、同社長が『施設の面でクレームのつかないキャンプ地にして、チームに〝キャンプは安芸で行う〟という意識付けを』という考えを持っていたからこそ、施設の改善に力を入れてくれたのだ。
その究極は、ノドから手の出るほど必要に迫られていた安芸の室内練習場だった。そういえば、その前にエアードームを購入していただいたが、これがとんでもない厄介な代物。なんと二年目からは雨漏りがするではないか。雨降り用に設けた施設から雨が漏るようではどうしようもない。役立たずもいいところ。高い買い物になってしまったが、懐の深い人、三好社長からのお叱りはなかった。
さて、エアードームの跡地がポッカリと空いた。室内練習場を建設する場所ができた。さあ、どうする。安芸市としては町の活性化に阪神タイガースのキャンプは欠かせない。かなり力を入れた活動に出た。国との交渉である。その話し合いで建設費用の約半額の補助を引き出してくれたのだ。とはいえ、球団としても相当の出費を覚悟しなければならない。私も、安芸市の方からいろいろ相談を受けたものの、決断するのは三好社長である。その日がきた。安芸市からは、市長はじめ数人が室内練習場建設の交渉に来社された。結果は・・・。『本間君。OKいうといたでぇ』。社長のひと言で胸をなでおろしたことを覚えている。決して力まず、さりげなく伝えてくれるところが、自然体の社長らしい。
本当、お世話になった。OB会がキャンプ地に出向いて行っていた、選手に対しての陣中見舞の経費までお願いしてしまった。気い良く引き受けてくれた三好社長。就任早々にはラッキーゾーン撤廃の問題が起こった。選手上がりのフロントマンを役員に昇格させる、球団初の画期的なことをやってのけた。その他、数々の出来事はあったが、あのプロ野球界最長試合時間ゲームを管理していたのも三好さん。1992年、9月11日の対ヤクルト戦。当時の私、試合管理人代行の職についていただけに、ここでもお世話になった。
最後にこんな場面に直面してしまった。シーズンの終盤だった。社長の知らないところで、自身の退団報道があった時だ。『オレ、何にも知らないんやけど・・・』と相談を受けたことがあった。『有りのままをお話しするしかないと思います』の返事をすると『そうやなあ・・・。それしかないよな』。やはりその時はいつもの三好さんではなかったが、今ではお元気。また甲子園か鳴尾浜でお会いしましょう。
さて次回、そういえば三好社長の時の入団だった。つい先日現役引退を表明した桧山進次郎選手で―。
(※タイガーデン=現在の呼称はタイガース・デン)
列伝その49
●三好一彦
西宮市出身。旧制灘中学から神戸大学へ進み、在学中は野球部に所属。1953年に阪神電鉄入社。1985年から阪神タイガース球団取締役、1990年12月に本社専務と兼務で球団社長に就任。1998年に退任するまで、チームは低迷したが、環境、施設面での改善が、現在のタイガースへつながる下地となった。