[13.9月号掲載]
48人目 猿木忠男
虎の歴史とともに歩んだ名物・名トレーナー
この人、まだまだ元気だ。時々、甲子園球場、あるいは鳴尾浜球場でバッタリ出会う。先日のことだった。私の顔を見るなり『本間さん―。この前ですねえ、還暦野球のメンバーになりました。時々、練習にも参加していますよ』。嬉々としていたのは、猿木忠男さん。阪神タイガースの元チーフトレーナー。還暦野球には、はじめはトレーナーとして勧誘されたらしいが、あくまでも現役選手を主張して入団したとか…。定年退職して二年目。もう、六十歳も半ばを過ぎているというのに、球場へやってきてもじっとしていない。暇を持て余しているとはいえ、時にはスポーツ医学の講師にも―。
トレーナー。なかなか激務な職場だ。選手はチームに六十人から七十人は居る。若い選手はそうでもないが、この世界、我がままな連中が多い。こんな連中と四六時中顔を合わせている職場。次から、次へと治療に訪れる選手は、グチをこぼすヤツ。言いにくい事をはっきり言うヤツ。他人には話せない事を平気で喋るヤツ。千差万別、多種多様。リラックスしている時の選手の口は実に滑らかなようで、チーム内で一番の情報通はトレーナーだという。反面、トレーナー室での情報が外部に漏れるようなことがあったら大変なことになる。トレーナーが選手からの信用をなくしてしまうと、どうなるか。選手が治療にきたがらなくなる。故障者が治療にこないと手当てができない。手当てができなければ完治が遅れる。故障が長引いたときの責任はトレーナーになる。だから、仮にフロントに伝えるべき情報があっても、我々には一切明かさなかった。
口が堅くないと務まらない。おまけに拘束時間は長い。こんな職場をまとめてきたチーフトレーナーだが、ふだんは、どちらかといえば話し好き。選手ともよくジョークを言い合いながら雑談する光景をよく見た。トレーナーと広報担当の間柄。同氏とはよく病院にも行った。その時の選手がバースだったり、掛布だったり、岡田だっりした。スタープレーヤーも多かれ少なかれケガはしている。そういえば1985年。山本和がアキレス腱を切り、私が生まれて初めて救急車に乗ったのも猿木氏と一緒だった。いろいろな病名もたくさん教えてもらったが、もう忘れた。
選手管理は大変だったと思うが、この世界。監督、コーチはもちろんのこと、トレーナーも選手を納得させるだけの説得力が要求される。その説得力という点で同チーフの話を思い出した。相当数の選手の体を見てきた人だ。選手の体についての話には説得力があった。私が広報担当としてタイガースへ再入団した年だ。我々の現役時代では考えられないほど故障が多い。そして、完治するまでの期間が実に長い。何故…?どういう傾向があるのか疑問を抱いていたので聞いてみたときだ。宿舎で食事をしながら、私の体験を交え、わかり易く的を射た話をしてくれた。
『いいですか―。本間さん達の時代のピッチャーは、高校時代のピッチング練習で、一日平均何球ぐらい投げていましたか…。おそらく三百球から四百球だったと思います。当時はそのくらいの球数が当たり前で、何の違和感もなかったはずですし、常にそれだけの球数をクリアできないようでは、チームのエースにはなれなかったわけで、それでヒジや肩を痛めたりしたら、ピッチャーは失格ですよね。今どきのピッチャーは違うんです。一日五十球前後が普通で、よく投げても百球止まりです。だから、本間さんの頃のピッチャーは三百から四百球投げても壊れないわけで、元々ヒジや肩が強い人なんです。そういう人しかピッチャーになれないのだから、あまり故障はしませんよね。仮に故障したとしても完治するのが早い。最近の人は、試合に合わせて調整しますし、投げる球数が少ないので、本当にヒジや肩が強いのか、弱いのかわからないまま試合でいいピッチングをしたら獲得しますので、入団、即故障というのがあるんです。もちろん、今でもヒジ、肩の強い人はいますよ』
さすがトレーナー。持論だろうが、実にわかりやすかったし、説得力があった。選手の体を気遣ってこその話だったが、トレーナー・猿木の気遣いは、選手管理の面でさらに進歩していった。何を隠そう、日本球界にアイシング療法を持ち込んだのは同氏だった。1978年、阪神-広島の合同で、米・フロリダ・プラデントンでの教育リーグに参加した時。米国ではすでにアイシングは主流になっていた。『ピッチングをしたあとの肩やヒジが起こした炎症を抑えるには、冷やした方がいい』は医学でも証明されていた。猿木氏、即実行した。『現地では選手もアイシングを目の当たりにしていたし、気温も高かったたので試してみる選手はいた』。経過は良好。事はスムーズに運ぶかと思われたが…。
大変だったのは翌年のキャンプ。日本ではまだ『肩、ヒジは冷やすな』が当たり前。冷やそうものなら、故障の一因になると誰もが思っている頃に『温める』から『冷やす』へ百八十度転換だ。体が資本の選手に拒否反応があって当然。特にベテランの江本、小林などは全く受け付けなかったという。『まあ、いろいろありましたわ』。この言葉には、転換期の苦悩が窺えたが、苦労の甲斐あって今では欠かすことのできない手当てとなっている。猿木氏、さぞ満足していることだろう。
さて次回。フロントのトップ。私が八年間世話になった、三好一彦社長に登場を願おう。
列伝その48
●猿木忠男
1948年2月24日生まれ。大阪府出身。1969年に球団トレーナーとして阪神タイガースに入団。1982年からチーフトレーナーに就任した。1998年には日本体育協会認定のアスレチックトレーナー資格を取得。2008年に定年となり球団本部付に移動。2012年2月の退団までの43年間にわたり、阪神タイガースの選手のケア、危機管理対応に従事してきた。在任中から日本プロ野球トレーナー協会(JPBATS)の学術部、国際部などの役員を歴任し、現在も顧問を務めている。