[13.1月号掲載]
40人目 野村克也 その2
虎に浸透させた「野村の考え」 イメージに反して意外な一面も
野球人・野村克也氏――。プレーヤーとしての実績は申し分ない。監督としての手腕も南海(現ソフトバンク)と、ヤクルトで実証済み。プロ野球界で己を極めた人。その存在は言う迄も無い。私も現役時代には対戦したことはあるし、新聞記者当時は取材もした。気心を知るまでには至らなかったが、タイガースが招いた久々の外様監督。広報という立場上、監督がどんな考えを……。どんな行動をとるか……。等々、正面から。横から。斜めから。そして後ろから。いろいろな角度から覗いてみた。
三冠王にまで輝いた人だが、一人前に至るまでの道程はかなり険しかった。テスト入団だった。初めに与えられた任務はブルペン捕手だった。それどころか、一度は整理される寸前にまで至った。実力の世界だ。崖っ縁に追い詰められながら、極限から這い上がった。新聞配達までして育った厳しい環境。ハングリー精神以外の何物でもない。負けじ魂と、並々ならぬ努力が実ってつかんだ正捕手の座。南海打線の軸"不動の四番"にまで昇り詰めた人。ノムさんの話の中で今だはっきり覚えているのは、同年代の選手達が外出するのを目にすると『ヨシッ。これで今日は、あいつらより練習量で勝てる』とほくそ笑み、合宿で心行くまで素振りを繰り返したという言葉。そして、弱者を鍛えるため、練習後連日遠投を続けたという話。
キャンプ前に、各選手に配布した"野村の考え"の中に、努力家を証明する文言がある。『成功するという結果より、努力をするという過程を重視せよ』だ。努力は嘘をつかないという。そして、こう付け加えている。『過程を重視しない成功や勝利は、成長にはつながらないし、終わったあと、何にも身にはついていない』と――。また『人間は、積み重ねていく過程で作られる』と語る人。まさに、地道な練習を繰り返してきた人の発言だ。
プロフェッショナルとしての、野球選手を語らせると、グラウンドに出る時の最低限の義務と『常に心、技、体、頭をベストの状態にしておくこと』だという。通常、こういった時には『心、技、体』の充実を唱えるのが普通だが、ここに"頭"が付け加えられている。いかにも『頭脳に限界なし』が持論のノムさんらしいし、選手達に考えることの重要性を浸透させたことがうなずける。タイガースの体質を変えた人。その根本はオーナーの考えを変えてくれたことにある。
ある日、こんなことがあった。甲子園球場にやってきたノムさん。私に向かって『オイッ。今日はオーナーを怒らせてしもうた。チーム作りの話の中で、"ひょっとしたらオーナーは、監督を代えたらチームは強くなると思っていませんか"と聞いたら"そうや"言うから、その考えは間違いです。チーム作りで一番大事なのは編成(補強)です。もっとお金を使ってでも、いい選手をとらないとチームは強くなりません。と言ったら、ちょっと気分を悪くしたみたいや』ニガ笑いしていたが、当時のオーナーだった故・久万俊二郎さん。胸にグサッと刺さるひと言だったに違いない。
FAを宣言した大物選手を、大金を払ってでもとりにいくようになった。ドラフトで獲得した新人にもお金を使うようになった。こんな話もしたという。『阪神というチームはファンは多いし、勝てばお客さんは必ずきてくれる球団ではないですか。お金を使わなかったら弱小球団のままですよ。先行投資はするべきですね』金銭面では諦めの境地にあったOB監督とは違い、オーナーに直談判してくれたのがノムさん。2003年、2005年にリーグ優勝した常勝軍団の基礎を築いた人に間違いない。
三年連続の最下位。物議をかもしだしたことは何回もあったが、人情味のある一面も見せていた。例えば、選手が連盟から表彰されると、どんな小さな記録でも、必ずポケットマネーを渡していた。世間の噂ほど冷たい人ではない。いつだったかはもう忘れたが、大豊が遅延行為で退場処分になった。この時の制裁金二十万円について『大豊本人が支払う』という球団の方針を伝わると『何で大豊が払わないかんのや。球団がそんな方針を出したんだったらオレが払う』と怒り出したひと幕もあった。
予想外だったのは話し好き。これにはまいった。キャンプ時の記者会見。練習後にトラ番達と話をするのは義務ではあるが、その長いこと。一時間たってもこちらに向かってくる気配はない。監督送迎車の専属運転手の私。気長な性格とはいえさすが時間を持て余した。三年間だったが、いろいろなことを思い出す。ノムさんと居て一番ホッとしたのは無邪気な笑顔だった。結構見せてくれた。私が野村監督とよく間違えられた。その話で『今日も年配夫婦に、指を差され"アッ野村や"と言われましたわ』には、実に人懐っこい笑顔で反応する。アルコールが全く飲めない究極の甘党。以前故・小林繁を書いたときの、あの太っちょなオバはん持参の大福をホオばった時の顔。実に無邪気だ。こういう一面もあったことを思い出す。さて次回、その野村監督が『宇宙人』と評した新庄剛志氏で。
列伝その40
●野村克也
1935年6月29日、京都府網野町(現京丹後市)生まれ。峰山高校を卒業後の1954年、南海ホークスにテスト入団。3年目のシーズンから正捕手の座をつかむと、1957年には本塁打王を獲得。以後、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回(1965年は三冠王)などを獲得した打棒と、「ささやき戦術」に代表される捕手としての駆け引き、類まれなる分析力で、南海の黄金時代を支えた。1970年、球界初のプレーイングマネージャーに就任。ロッテ、西武に移籍後の1980年に現役を引退した。1990年からはヤクルトスワローズの監督として4度のリーグ優勝、3度の日本一に導き、1999年、阪神タイガースの監督に就任。指揮を執った3年間はいずれも最下位と結果は残せなかった。その後は社会人・シダックスの監督として武田勝(日本ハム)・森福允彦(ソフトバンク)など多くのプロ選手を輩出、2006年から楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任し、2009年にはチーム創設以来初のCSに進出させた。