[12.4月号掲載]
33人目 藤本勝巳
「努力」で輝いた野球人生
ホームラン王と打点王の二冠に輝いた人。振り返ってみると、もう半世紀も前の話になる。昭和三十五年である。前年度のホルダー、中日・森徹氏や、巨人・長島茂雄さんを抑えてつかんだタイトルに価値がある。藤本勝巳さん。天才ではなかった。どちらかといえば不器用なタイプだった。コツコツと地道な努力を重ねて上り詰めた人。がっしりした体、筋骨隆々たる体形は、いかにも長距離ヒッター。22ホーマーの76打点。タイガースの四番バッターは、知る人ぞ、知るといおうか、あの人気歌手・島倉千代子さんと結婚したが、我々、仲睦まじい結婚生活を目の当たりにしている。
私の二年先輩。和歌山は南部高の出身。まさしく〝練習の虫〟だった。私には昼間だろうが、ナイトゲームが終わってからだろうが、常にバットを持ち歩いていたようなイメージがある。藤本さんの練習量には本当、驚くばかりだったが、こんなこともあったとか―。同氏の入団時は、まだ選手であり、打撃の神様といわれていた偉大な巨人・川上哲治氏から声をかけられた。藤本さんが一塁に出塁した時である。『あとで悔いを残さないよう、努力しなさいよ』と―。もう、大感激。それで練習の虫と化したわけではないが、とにかくバットスイングは欠かしたことがない選手。
夏場など、筋骨隆々の上半身は素っ裸で、合宿所の裏庭で素振りをしている姿をよく目にしたものだ。顔中、玉の汗。体に吹き出した汗は流れ落ちている。なんでもシーズン中は一日五百スイング。オフには千スイングを一日も欠かすことなく日課にしていた。誰もが認める努力家。そういえば私もあやかったわけではないが、球場に行く前、朝早起きして甲子園浜までランニングをしていた頃があった。藤本さんのこのプロ魂で、野球界の厳しさを学んだといってもいい。
二冠王を手にして、レギュラーポジションはもう、不動のものかと思ったが、事がスムーズに運ばないのが勝負の世界だ。例年悩まされていたのが足の故障である。藤本さんのあのデッカイ上半身に対して、足が実に小さい。靴のサイズは、なんと24㌢。重い上半身を支えることができず、毎年、毎年どうしても足のケガに泣かされていた。いろいろ考えたのだろう。熟慮して出した結論が、体重を落として足の負担を軽減することだった。なるほど理にかなっているが、まさか、よかれと思って決断したこの方針が、マイナス材料になるとは皮肉なものだ。体重を落としたことによって打球が飛ばなくなってしまったのだ。
確かに減量して体は右に左に動きやすくなったが、持ち味であるホームランが極端に少なくなってしまった。こうなるとすべてが悪循環になる。打球が遠くに飛ばなくなった分、遠くへ飛ばそうと思って余分なところに、余分な力を入れてしまう。ますます打球は飛ばない。そして、余分なところへ力を入れることによって、バッティングフォームは崩れてくる。人一倍の努力をしてきた人だが、一度崩れてしまったフォームはなかなか元に戻らない。考えれば考えるほど形が崩れていく。故障も手伝ってか、悪い時は悪い事が追い打ちをかける。丁度この頃メキメキ頭角をあらわしてきたのが、遠井吾郎氏である。バットコントロールは素晴らしい。安定感では遠井氏のほうが一枚上。厳しい世界だ。いつの間にか立場が逆転していた。
実働十二年。初打席は〝三球三振〟で始まった野球人生。1033試合に出場して、113ホーマーを放っている。全くの無名選手から這い上がった人。五年連続で規定打席をクリア。昭和三十四年、後楽園球場で行われた、対巨人の天覧試合では、天皇、皇后両陛下の前で2ランホーマーを放っている。給料も入団時は二万円だったのが、一時は月給五十万円の高給取りになっていた。『十二年間、燃焼したね。二度の優勝を経験したし、天覧試合ではホームランを打てたし、幸せな野球人生だったね』以前、こんな話を聞いたことがある。
努力の人。決して背伸びはしないタイプだったが、藤本さんが唯一こだわったのは、〝オシャレ〟である。当時はタイガースの合宿所(若竹荘)に二件の洋服屋さんが出入りしていたが、スーツにジャケットなど、部屋のロッカーに入りきらない数の洋服が並んでいた。『とにかく田舎もんですから、せめてかっこうだけでもプロ野球選手らしくと思ってね』精悍な面構えに、マッチョな体形。田舎もんどころか、なかなか背広姿は決まっていた。高校時代、無名だった同氏とは対照的に鳴物入りで入団したのが前岡勤也(旧姓井崎)さん。同じ和歌山は新宮高から同期でタイガースへ―。スポットを当ててみる。
列伝その33
●藤本勝巳
1937年8月8日、和歌山県出身。南部高校から1956年にタイガース入団した。入団時は投手で背番号は「53」。打者に転向して2年目から頭角を現し、3年目の1958年からは背番号が「5」に変わった。翌年、6月25日にはタイガースの四番として後楽園球場で行われた巨人との天覧試合に出場し、本塁打を記録。1960年には本塁打と打点の二冠を獲得。ベストナインも二度(1959・1961年)受賞した。