[12.2月号掲載]
31人目 梶岡忠義
小さな体に不屈の魂 生涯〝野球大好き人間〟
元来が〝真面目人間〟そして〝野球大好き人間〟私が入団した時のピッチングコーチ。我々、若手を指導する時の口調は実に熱っぽい。『身ぶり、手ぶり』『手とり、足とり』本当、丁寧にアドバイスをしてくれた。『いいか本間―。ボールは腕で投げるんとちゃうぞ。もっと下半身を使って、腰で投げるんや。それと、体重は一旦左足に完全に乗るくらいに体を使わないと…』何度も繰り返し、繰り返し注意してくれた。故・梶岡忠義さん。大学(専修大)、ノンプロ(中央工業)を経ての入団。実働9年で131勝、85敗。防御率2・80という立派な成績を残した人。
プロ入りしたのが26歳。やや遅きの感はあったが、入団した年から22勝8敗、防御率1・92の大活躍。翌年8月24日、南海(11回戦)を相手にノーヒットノーランを記録した。まだ一リーグ時代で、アマチュア野球の聖地として、プロ野球の使用を禁止していた神宮球場で初めて興行した、記念すべき日の大記録の樹立である。ピッチング内容は四回、八回の二死から2四球を与えただけ。最後まで二塁を踏ませることはなく、投球数95球で料理。外野フライ12。内野フライ6。内野ゴロ7。三振2。完璧なものだった。梶岡さん、誇らしげに『最後のバッターには〝凡打してくれ〟と祈って投げたねぇ』こんな話をしてくれたことがあった。
現役時代の身長は170㌢、体重68㌔。決して恵まれた体格ではなかった。プロ野球選手としては小柄な体型だったが、下半身の大きなガッシリした体。梶岡さんを知る人に聞くと『球は生きていた』と言い『変化球の切れも鋭かった』と言う。昭和二十七年には、38試合に登板。うち、20試合に完投、21勝8敗の成績を挙げ、防御率1・71で最優秀防御率投手のタイトルを獲得している。投げるだけにあらず、これも同氏の自慢の一つだが、投手でありながら通算〝12〟ホーマーを放っている。大学時代〝投手で四番バッター〟だったとはいえ、タイガースの投手では最多。この記録はいまだ破られていないはずだ。アゴの骨を折ったことがある。手首、ヒザなども骨折した。右肩を痛めて別府温泉で療養に専念したこともあったが、数々のアクシデントは持ち前の根性で克服。真面目な性格が野球に取り組む姿勢に反映しての成績だ。
なかなか堅実な人でもあった。ちょうど二リーグ分立時の真っ只中。他チームに移籍しないように、タイガースから頂いた一時金で、神戸市に一戸建ての家を購入した。安住の地を手に入れて、タイガースを退団してから、再びサラリーマンとして会社勤めをしていた時も、この家から通勤していた。野球大好き人間は当然のように、会社帰りに甲子園球場に立ち寄って試合を観戦。声援を送って後輩たちの後押しをしていた人。悠々自適の生活をしていた梶岡さんを、とんでもない不運が襲った。あの神戸を真面に直撃した〝阪神・淡路大震災〟である。
家屋は全壊した。もう、50年近く経っていた。震度7とも8ともいわれた強震には耐えられなかった。新しく建て替えも考えたが、年齢的に子供さんの近くにいた方が安心と判断。娘さんの住む関東に引越された。千葉県は浦安市でマンション住まい。関西から関東へ。環境が全く違う。毎日の生活にかなり苦労されたようだが、特に不便を感じていたのが古巣・阪神タイガースのニュースだ。同じスポーツ紙でも東と西では紙面は全然違う。神戸で暮らしておればタイガースの情報は何の苦労もなく耳で聞き、目に入ってくるが、関東のスポーツ紙では、根気よく探さないと見つからない。チームが弱い時期だっただけになおさらだ。どこか寂しい思いをしていたのだろう。
チームが東京遠征すると、時々宿舎に足を運んでくれた。『もう、チームを離れてかなりの年月が経っているから、顔見知りといったら本間しかおらんのや』といいながら笑顔を見せてくれる。こんな話も。『こっちのスポーツ紙は、タイガースのことなんか全然載らへんし、寂しくなってなぁ』最悪のチーム状態。関東のほうで大きく取りあげてくれるマスコミなどあるはずがない。しばらくは溜まっていたうっぷんを一気に晴らすかのように『あんな雑なプレーはないぞ』とか『あの場面で、あのカウントで、あんな球を投げたらあかんわあ』または『あそこでピッチャーを代えるなら○○だろう』などなど実に熱っぽい。相変わらずの梶岡さん。最終的には1960年代の昔話に花が咲いた。晩年は杖をついてこられていたが、まだまだお元気だった。私も大先輩が訪ねてこられるのを楽しみにしていた。
話が佳境にはいってくると、元来の〝真面目人間〟〝野球大好き人間〟の本領発揮。熱っぽい口調は、数十年前ユニホームを着ていた当時と少しもかわらない。二人で昔話をしていると話が弾む。時間の経つのが早いこと。そんな梶岡さんも2003年の3月に他界された。残念ながらその年のタイガース18年ぶりの優勝を見届けることはできなかった。それでも2001年にお孫さんが主将を務めていた習志野高校が、夏の甲子園に出場した際には、千葉から駆けつけてスタンドから温かい視線を送っていたそうだ。もう昔話ができないかと思うと寂しいが、天国で、熱っぽく自慢話をしていることでしょう。次回は梶岡さんからOB会長をバトンタッチされた、4代目会長・田宮謙次郎さん(故人)に登場していただこう。
列伝その31
●梶岡忠義
1920年9月26日生まれ。大阪市出身。右投げ右打ち。成器商業学校(現大阪学芸高)から専修大学、中央工業を経て、1947年に阪神タイガースに入団。エースナンバー「18」を背負い、初年度から活躍。2年目には土井垣捕手と組んで、プロ15人目、阪神では三輪八郎、呉昌征に次ぐ3人目となるノーヒットノーランを達成した。現役引退後は阪神で投手コーチに。晩年には阪神タイガースOB会の3代目会長を務めた。本文にあるお孫さんの梶岡千晃さんは、その後中央大からNTT東日本に進み、現在も内野手として活躍している。