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本間勝交遊録
[12.1月号掲載]
30人目 後藤次男
マイペースでお人好し 愛すべき〝クマさん〟の思い出

 代打での出番が多くなりだした現役晩年。監督が〝ピンチヒッター・後藤〟を告げる。こんな大事な時、何故か、いつもベンチに姿がない。『クマさーん。後藤さーん』大声で呼びまわっても返事がない。タイミングが悪いといおうか、行き先は決まってトイレ。探しまくっている我々のほうは焦って冷や汗をかいているのに、本人は何食わぬ顔で用を足している。当時、甲子園球場のトイレは、ベンチから少し離れたところにあって、入団したての私など何度呼びに行かされたことか。『おう、スマン、スマン』別に急ぐ様子はない。おもむろにベンチへ戻ると、バットをケースから引き抜いてグラウンドへ。あくまでもマイペース。何事があろうと、相手に弱味を見せないところは、さすがベテラン。
 後藤次男さん。15代目、19代目。二度にわたる監督経験者。初め(1969年)のペナントレースは68勝59敗3分け、リーグ二位の好成績を挙げながら、一年で解任される。1978年、二度目の指揮を執った時は、球団史上初の最下位。最悪のシーズンに終わって監督生命はともに一年の短命だったが、当時、巨人や西武が推進していた〝管理野球〟は性に合わない人。相手の身になって物事を判断する人。好人物。監督と選手、あるいは選手同士で目が合っただけで、その時の状況に応じたプレーができる、自主性を重んじる野球を理想としていたが、実を結ばなかった。
 熊本工-法政大を経て、まだプロ野球が一リーグ時代、昭和23年に阪神入り。契約金の12万円は、当時では破格の金額だったとか―。その実力は二年目から、四年連続して3割をマークしたことが証明している。特に、25年に記録した、8打席連続安打を放った時の塁打数が半端ではない。何と〝25塁打〟内訳を聞いて2度びっくり。5本塁打、2二塁打、1単打。打ちも打ったり、この塁打数は連続打席安打を放った選手の中で、いまだにプロ野球記録とも聞いたが…。好打者で、ボール打ちの名人。高めの球ならバットが届く範囲であればヒットを打てた人。
 今で言う〝ユーティリティープレーヤー〟投手と遊撃手を除く7つのポジションをこなした選手。外野手の467試合が最多出場だが、一塁手246。二塁手115。捕手10。三塁手2。本当は大学時代にやっていた『捕手で生涯を全うしたかった』らしいが、夢叶わず。現役時代右、左、右と三度も鎖骨を折った苦労人。傷跡を見せていただいたことがあるが、三度目は腰の骨を移植して手術するという重傷だった。
 いずれの故障からも復活した根性の持ち主。私が入団した二年目、ファームの監督に就任された。この年、ウエスタン・リーグで優勝。厳しい一面と、優しい一面を持ち合わせていた人。元来は〝仏のクマさん〟と言われるほどの好人物。怒りをあらわにする姿など目にしたことがない。人懐っこい笑顔のよく似合う人。ゲームが無い日の練習後、我々外出するさい、合宿所を出て後藤さんがいつも駄弁っている、食堂の前を通って電車に乗りに行く。すると同氏、若い選手を見ると必ず『どこへ行くんやあ』と声をかけてくる。『ハイ、ちょっと映画でも』のやり取りをしていると『ほんなら、これで見てこい』小遣いを手渡してくれた。実に心やさしい人である。
 こんな一面もあった。昭和34年の夏場、巨人、国鉄(現ヤクルト)、阪神の3チームで東北、北海道を遠征した時のことである。山形を皮切りに札幌、旭川、北見等を転々とし、最後にもう一度秋田で最終戦を行う日程。前の年は北陸、佐渡ヶ島等を同じ3チームで転戦したが、後藤さんが監督での東北、北海道シリーズ。秋田での最終戦を迎えた試合前だった。『いいか。よく聞けよ。今日負けて、このシリーズ負け越すようなことがあったら、お前ら全員坊主にする』仏のクマさんが一変した。チームのムードは引き締まった。確かここまで7勝7敗。先発投手は本間。かなりのプレッシャーを感じてマウンドに上がった。結果は完投勝利。胸をなでおろした記憶がある。
 これぞ愛のムチ。全員が一丸となって戦った勝利。団体競技である。チームワークの必要性を感じた出来事だった。大正13年生まれ。いまやOB会でも長老。昨年(11月26日)の同会でも、乾杯の音頭をお願いして壇上に上がっていただいた。お人好し。仏。そしてボヤキのクマさん。趣味はマージャン。勝った、負けたは性格そのまま。『負けてばっかしやあ』勝敗の話になるとボヤキの本領を発揮するが『でもなあ…。ありがたいことに、ボケ防止にはなっとる』と趣味と実益を兼ねたマージャン効果にはニンマリ。翌年に一軍デビューした私の基礎を築いてくれたのが後藤さんなら、入団時から技術指導をしてくれたのが、故・梶岡忠義ピッチングコーチである。
列伝その30
●後藤次男
1924年1月15日生まれ。熊本県出身。右投げ右打ち。熊本工業時代には三度の甲子園出場。主将も務めて法政大学へ。プロ数球団からの誘いがあったが、大学の先輩でもある若林忠志が監督を務める大阪タイガースに入団した。初年度から主力として活躍したが、晩年はケガの影響で出場機会が減少していった。引退後は、コーチ、二軍監督そして二度にわたる一軍監督を歴任。その後は解説者、OBとして、甲子園球場からほど近い自宅から、監督時代と同じように自転車で球場に姿を見せていた。

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