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本間勝交遊録
[11.10月号掲載]
27人目 中西清起
八十五年、歓喜の胴上げ投手の不思議な思い出

 最後のバッター、ヤクルト・角の打球は投ゴロ。難なくさばいて一塁へ送球。1985年10月16日、阪神が21年ぶりにペナントを制した瞬間の光景だ。私もベンチで目の当たりにし、選手たちと一緒になって喜んだ。あの感激、いまだ、はっきり脳裏に焼きついている。神宮球場だった。対ヤクルト24回戦。マウンドには中西清起投手(現二軍ピッチングコーチ)がいた。引き分けでも優勝が決まる。九回、同点に追いつくと、満を持してストッパーの登場である。1点も与えられないゲーム展開。強烈なプレッシャーがかかる中、さすが強心臓が売りの男。ビクともしない堂々たるピッチング。2イニング投げて奪三振3。内野ゴロ3のパーフェクトリリーフ。栄えある胴上げ投手に輝いた。
 タイガースが唯一日本一になった年の同投手。19セーブ。11球宴勝利、計30のセーブポイントを挙げて最優秀救援投手賞のタイトルを獲得した。後半戦、負傷欠場した山本和行投手の穴を完全に埋めるどころか、頼りになるストッパーとして、誰もが認める投手として一本立ちした。当時のクローザーは大変だった。3イニング投げるのが当たり前。当番前のピッチングを含めると、かなりの投球数になる。現在は1イニング限定が既成の事実になっているが、負担が大きかった時代のリリーフエースで、中西投手は、優勝を決めたゲームの三日前、この年優勝争いをしていた広島戦で、3回を締め括ったあとのマウンドだった。厳しい状況の中にもかかわらず、自分の仕事をいとも簡単にやってのける頼もしいヤツ。球の切れとコントロールで勝負するピッチャーだったが、凄かったのは勝負球のカーブ。切れが鋭くて大きい。右バッターなどは、投手の手から球が離れた瞬間、ボールが自分の方へ向かってくる。一瞬ビックリして体を引いてしまう。ところが球は大きく曲がってストライクゾーンへ。見ていて実に気分のいいシーンだった。
 私生活は、あっけらかんとしていた。だが、物事にこだわらないように見えて、その良し悪しは心得ていた。チーム内では平田前二軍監督、木戸現ヘッドコーチと共に『NHK三羽鴉』の一人だった。ある噂が中西投手の耳に入ろうものなら『即チーム内に知れ渡っている』というレッテルを貼られていた。私は実際に直面したことがないのでよくわからないが、普段の行動にあらわれているから面白い。面白いといえば歌である。聞いたことのある人は結構多いだろうが、それは、究極の音痴。それでも、平気で歌おうとする。彼の現役時代、冗談で『プロ野球選手の歌番組に出演してみるか・・・』と声をかけてみると、何と、ふたつ返事で『いいですよ。歌ってきます』の思いもよらぬ言葉がかえってくる。まさかの返事に、こっちの方が慌てるひと幕があったほど。心臓に毛が生えている、とはこのことか・・・。
 不思議な事件の主人公にもなった。私、タイガースの広報担当を11年間務めてきた。数多くの問題、話題と直面してきた。表面に出てほしくないもの。どんどん報道してアピールしていきたい出来事など、その場、その場の絵を書きながら、何とか切り抜けてきましたが、ある一件だけ、何故、厳しいマスコミ各社の目をかいくぐったのか、いまだに不思議でならない。中西投手がドラフト一位で入団した年である。注目度は高いはずだ。その事件は深夜におこった。合宿所(虎風荘)。もう門限は過ぎている。この時間に寮を抜け出そうと企んだ。悪いことはできないものだ。二階から塀伝いに外出しようとして足を滑らせた。
 大ケガをした。額を何針か縫う重傷。練習どころではない。休めばマスコミにはすぐバレる。報道関係の情報網は百も承知だ。根掘り、葉掘り詮索されるのは目に見えている。紙面が想像できる。間違いなくスポーツ紙一面の大ニュースだ。一報を聞いて、同対処すべきか熟慮した。なかなか結論はでない。当時の球団代表は岡崎義人さん。一応自分の意見を持って報告に行った。『ドラフト一位の選手です。絶対にバレます。こちらから先手をうって発表しましょう』と申し出てみたが、私の意見は即却下された。『何言うとんねん。こういう問題をわざわざこっちから発表する必要はない。表面に出た時の対応をきっちりしておけばいい』だった。何度か押し問答を繰り返したが、そこは上司。代表の指示に従うしかなかった。
 一応のマスコミ対策を決め込んで待つことにした。一週間がたった。二週間がたった。何故か表面に出てこない。それどころか、一カ月が経過しても表沙汰にならない。『本当にこんなことってあるの・・・』信じられない。ホッと安堵する反面、中西投手がユニホームを着てグラウンドに出るまでは、気が休まらなかった。写真週刊誌等、数々の問題を手がけてきましたが、その中で、不思議度は間違いなくナンバーワンの事件でした。次回はこの年のダブルストッパーだったもう一人、山本和行投手にスポットを当ててみる。
列伝その27
●中西清起
1962年4月26日生まれ。高知県出身。右投げ右打ち。高知商業高校時代は3年連続で甲子園に出場。リッカーを経て、1983年のドラフト1位で阪神に入団。前年まで小林繁投手がつけていた背番号「19」を背負う。入団一年目から主にリリーフとして活躍し、6月30日の巨人戦(後楽園)でプロ初勝利。翌年の1985年には63試合に登板し、最優秀救援投手賞を獲得するなど、チームのリーグ制覇、日本一に大きく貢献した。阪神一筋で1996年を限りに現役引退。その後解説者を経て、2004年からコーチとして阪神のピッチングスタッフを支え続けている。

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