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本間勝交遊録
[11.6月号掲載]
24人目 金田正泰
忘れられない プロ初勝利の温かい握手

  昭和三十五年。タイガースの新監督に就任したのが金田正泰氏(故人)だ。私の球界デビューを後押ししてくれた人。感謝の念は未だに持ち続けているが、もう半世紀も前のことだ。
 タイムスリップしていると、つい先日、宥めすかして甲子園球場へ連れ出した妻の『球場は男の世界』という発言で、当時の風評を思い出したし、さらに付け加えられた『昔へねえ、女性専用のトイレはなかったし、通路はもっと、もっと暗かった。あの頃と比べたら今は、竜宮城みたいにきれいで、明るい』では、球場の環境が大変貌したのを気付かせてくれた。確かに女性客の数は現在と比べたら雲泥の差。いつも球場を見慣れている我々はマンネリ化しているが、全くといっていいほど縁がなく、約五十年ぶりに甲子園を訪れた妻にはすべてが新鮮に映ったのだろう。過去に誰も招いたことのないベンチ裏。ベンチの中。ネット裏席。歴史館等を案内してみると、初めて触れてみたロジンバックに目を輝かせ、ベンチでは試合中に選手が座る椅子に腰をかけて物珍しげにあたりをキョロキョロ。今昔物語ではないが、妻の生き生きと姿と純粋な話で、半世紀前が甦ってきた。
 妻の言葉を辿って振り返ってみる。基本的に変わっていないのはグラウンドだろう。空想していると、金田監督がそこに居るような気になってきた。よくシゴかれた。よく怒られた。『もっと腕を振って走らんかい!』未だにこんな声が聞こえてきそうだ。厳しい人だった。決して妥協しない人だった。プロの世界で生き抜くための根底にあるのが〝ハングリー精神〟だった人。そして、プロ野球選手としての哲学は、一人前になること。一流プレーヤーになること。さらには、超一流プレーヤーになることだった。常に夢を持ち続けて自分を磨いていた人。太平洋戦争勃発の翌年にプロ入りした。物資は底をついてくる。日本経済は破滅状態。戦中、戦後の混乱期を真面に受けてプロ野球を盛り上げてきた一人。ただ者ではない。スジ金入りだ。
 一リーグ時代から実働十五年。この間三割をキープすること六度。昭和二十四年には、四月十六日の対南海一回戦でサイクル安打を記録した。首位打者にも輝いている。終戦直後のシーズンで105試合に出場。438打数、152安打で打率は・347でタイトルを獲得。この年の話は後日談として何度か聞いた。『正直いってなあ。本当にシンドかった。あんなに厳しいものだとは思わなかった。途中で、やめたろか、と思ったもん』 確か、首位打者を獲った選手何人かに聞いたことがある。『ホームランや打点は下がったり、減ったりしないが、打率は意識過剰になって調子をおとすと、率が下がったりする。大変な気遣い』だと言う。この話をするときの金田さん。笑ってはいたが、真に迫っているように見えた。
 タイトル。簡単に獲れるものでないのがよくわかる。こんな話を聞いた。私は直接関わっていないので詳しいことは知らないが、入団する前の年におきていた。藤村排斥問題の首謀者だったと…。また、江夏氏との確執もあった。そういう意味で、どちらかといえばダーティーなイメージを持っていたが、私が西日本新聞の記者をしていた頃、評論家として世話になったこともあった。だから、野球ではよく怒られたが、私にはまわりの人が言うほど悪い印象はない。二度目の監督時代に起こった江夏問題の時も、各スポーツ紙で叩かれ、マスコミを避けていたにもかかわらず『おー。本間かあ』と笑顔で迎えてくれた。しっかり受け答えもしてくれた。
 私がデビューした年の監督を忘れることはない。『いいかあ…。力むなよ。普通に投げたら勝てるから…』マウンドに上がる前、緊張している気持ちをほぐしてくれたのも金田監督だった。声をかけてくれたのは、忘れもしない昭和三十五年五月十五日。対巨人七回戦の試合直前だ。場所は我らがホームグラウンド甲子園球場。プロ入り二度目の先発。まだ勝ち星はひとつもない。観衆三万八千人。伝統の一戦である。地に足が着かない。スタンドのお客さんの顔は、ただボーっと見えるだけ。無我夢中で投げた。キャッチャー・山本(哲也)さんのミットだけを見て投げた。試合は五回、当時の外国人選手マイク・ソロムコ氏が満塁ホームランを打ってくれて気持ちが楽になった。
 八回途中から村山さん(故人)のリリーフを仰いだが、プロ入り初勝利を挙げることができた。終わってからの金田監督の言葉は、いまでもよく覚えている。『ナイスピッチング。よかったなあ。おめでとう』短いひと言だったが、実に温かみがあった。握手した右手をしっかり握って声をかけてくれた。手のぬくもりを感じた。私の野球人生の中で一番うれしかった出来事。その時の監督。あの笑顔。我が事のように喜んでくれていたような気がする。
 そう、金田さんは私が入団した年の二軍監督でもあった。甲子園球場にまだ椅子席はなかったと思う。遠い昔の思い出だが、真夏の甲子園。太陽が容赦なく照り付ける中、本当によく走った。ここでも同監督の存在は大きかった。妥協は許さない人そのままの厳しい練習だった。そういえばこの年、ファームで北陸遠征をしたことがある。巨人、国鉄(現ヤクルト)、阪神の三チームで佐渡島に渡って試合をした。バスで移動中、各家の軒下の表札を見ると、やけに〝本間〟姓が多い。金田二軍監督ひと言。『本間よ。お前の先祖は佐渡島ちゃうか…』バスの中、大爆笑。こんな一幕も―。次回は同じく私がデビューした年のピッチングコーチで、後に金田さんの後を次いで監督を務めた藤本定義氏(故人)にスポットを当ててみる。
列伝その24
●金田正泰
1954年7月2日生まれ。京都府出身。左投げ左打ち。外野手。旧制平安中学時代には甲子園出場。走・攻・守の三拍子が揃った選手で、プロ5球団から誘いを受け1942年に阪神に入団したが、頭角を現したのは戦後になってから。戦後初のペナントレースとなった1946年に首位打者を獲得し、1949年にはサイクル安打を記録、その後ベストナインにも選ばれチームの主将も務めた。シーズン最多三塁打(18)という記録も残している。現役時代は藤村排斥問題の中心人物とされ、引退後の二度にわたる監督時代(1960〜1961年、1973〜1974年)には、シーズン途中での休養や江夏投手との確執なども取り沙汰されたが、その手腕で何度もチームを立て直した。1973年には田淵選手を中心としたチームを指揮し、V9時代の巨人を追い詰めたが、後一歩のところで優勝に手が届かなかった。1992年、72歳で逝去。

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