[10.12月号掲載]
20人目 鎌田実
寡黙な職人気質も一転 一生涯を野球に
鎌田実さん。まさに“職人”だった。普段は、そんなそぶりは見せないが、ある時、あることに関して、突然頑固になる。人の話に耳を貸さなくなる。何が気にいらないのかわからない態度をとる。全く無愛想で箸にも棒にもかからない人間に見える時があるが、そんな時でも仕事をさせたら、実直で正確。寸分の狂いもなく、実に見事に仕上げる。自分の技術には絶対の自信を持つ守備の人。打ち取った打球がセカンドへ飛ぶ。平凡な内野ゴロ。グラブの真芯で捕球する。『パチン』小気味の良い、乾いた音がマウンドまで聞こえてくる。気分のいいものだ。半面、間一髪のプレー。打球を処理する時の体の切れの鋭いこと。実に見応えがあった。本人にとっては、ごく当たり前。どんなプレーをしても平然とベンチに帰ってくる。名手といわれるない野手はたくさんいたが、私が直に肌で感じ、この目でしっかり見てきた選手の中で、自然に投球のリズムを良くしてくれ、自然に気持ちを盛り上げてくれたのが、カマさん(現役時代の呼び名)のプレーだった。
近頃、職人といえる選手はめっきり少なくなったが、カマさん、愛用のグラブにも拘りを持っていた。指は短い。捕球するスポットは浅い。たった一ヶ所でしか捕れない。平たくてまるで手の平。私なんかでは到底扱えない代物。人には真似のできないプレーも見せてくれた。バックハンドトスである。1963年の海外キャンプで仕入れてきたワザ。当時、ほんの短い距離でならバックトスをする人はいたが、五㍍前後からでも平気でトスをしたのは同氏だけ。簡単なプレーではない。手首とヒジのバランスを、よほどうまくとらないといい球は投げられない。二ゴロの併殺プレーで、二塁ベースへトスする際の、クロスプレーで行うケースが多い。大胆かつ、素早いワザ。某球団ではついていけない選手がいて、監督からストップがかかったという。知る人ぞ知るプレー。プロの世界である。己の見せ場を奪われた。もどかしい思いをしたはずだが、こんな時でもボヤいたりしない人。まさに職人気質。
バッティングに関しても個性派だった。人には真似のできない打法の持ち主。決して褒められたフォームではないが、人呼んで“大根切り”打法。なにぶん、カマさんのストライクゾーン、高めの球は頭の上まであった。そのむずかしい、とんでもないボール球を、バットのヘッドを立てて、強引に振り下ろす。打法の命名はこのバッティングから。確率は低いが、これが時にはヒットになるから面白い。見ていると、つい『プッ!』と吹き出してしまうが、ベンチの中はといえば、『やったあ』の大声と拍手で大いに盛り上がったものだ。実働16年(阪神13、近鉄3)通算1041安打はさすがだが、ボール打ちが災いしたのか打率は・234。なんと、ド真ん中の球が苦手といわれた変なバッター。職人ならではの芯が強い人。守備でファンを魅了した“プロ”だった。
私が入団した時の合宿所・若竹荘(二人一部屋)の部屋長。一年先輩とはいえ、この世界、まだまだ上下関係は厳しい時代。やはり気は遣う。とくに入団直後は右も左もわからない。初めのうちは、毎日先輩の布団の上げ下ろしをしていたが、ある日『本間よ。布団ぐらいは自分でやるからいいぞ』の声をかけてくれた。やさしい一面を持った人。確か8畳一間だったと思うが、あとは押入れだけの殺風景な部屋。口数の少ない二人。高校時代、洲本高(鎌田さんの母校)へ試合にいった時のことなどを話していたと思うが、静かな部屋だったことは確か。部屋長は、二年目にして早くも一軍の選手。私も一軍に帯同はしていたが、甲子園に帰ればファームの練習に参加していた。朝早く部屋を出るときは大変。カマさんを起こさないように、抜き足差し足、そっと出ていったことはよく覚えている。だが、歳は近い。慣れるまでにはそんなに時間はかからなかった。互いに、いつの間にか雀卓をよく囲む間になっていた。
カマさんで、一番ビックリさせられたのは、物凄く雄弁になったこと。ユニホームを脱いでからだが、解説者としてマイクの前に座ると、現役時代では考えられないほどよく喋る。お互いにマスコミの一員として球場で顔を合わせる。あまりの変化に『何で、そんなに喋るようになったの・・・』とたずねてみると、その応えが振るっていた。『こういうこともあろうと思って、解説者になるまで喋るのをとっといたんや』だった。大笑いしたことがある。確かに我々も野球の話になると止まらないことがある。チームや、選手の現状など、データをじっくり調べて球場入りした勉強家。口数が多くなるのは当たり前だったかも・・・。
野球大好き人間。ユニホームを脱いだ直後から、子供に野球を教えていた。私も新聞記者当時、休みの日はよく手伝いに行った。先日、球団事務所の前でバッタリ合った。71歳、まだまだ元気だ。某大学の監督をやりながら、中学生も相手に頑張っている。野球好きのカマさんらしい人生。そのカマさんが入団時の部屋長なら、よく外食に誘ってくれた、遊びの師匠は並木輝男さん(故人)だった。
列伝その20
●鎌田実
1939年3月8日生まれ。兵庫県出身。県立洲本高校から1957年に阪神タイガースに入団。堅実かつ華麗な守備で、吉田義男、三宅秀史とともに鉄壁の内野トリオとしてタイガースの一時代を築いた。バッターとしては、吉田に続く二番打者として「大根切り打法」で走者を進塁させるなど、自己犠牲に徹する姿勢を見せた。現役引退後はテレビやスポーツ紙の解説者として活躍するかたわら、地元の淡路島などで少年野球を指導し、昨年からは神戸大学海事科学部硬式野球部(阪神大学野球連盟3部)の監督に就任。今年の秋季リーグでは、就任36戦目にして初勝利を挙げ、同チームのリーグ戦連敗が「65」でストップしたことが話題にもなった。