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本間勝交遊録
[10.11月号掲載]
19人目 三宅秀史
グラウンド内外のギャップに驚く 玄人好みの名三塁手

 『長嶋が、横っ飛びでファインプレーにする打球を、三宅は体の正面でなんなく捕球していた。打球に対する出足、そのあとの処理すべてを総合すると、三塁の守りでは三宅がナンバーワンだろう』
 巨人等で采配をふるい、三塁のコーチャーズボックスから攻撃の指揮を執っていた、水原茂さん(故人)のこんな談話を目にしたことがある。かつては、本人も名三塁手といわれた選手だった。目の前でプレーを見ていた人の評価だから間違いはない。
 三宅秀史さん。あのミスタータイガース藤村富美男さん(故人)のあとを継いだ“名三塁手”。吉田義男さんとの三遊間は鉄壁だった。打球を追う時の俊敏な動き、捕球してからの糸を引くようなスローイング。地味ではあるが、玄人好みする堅実な守りでファンを魅了した。当時、同じ世代の巨人・長嶋茂雄氏とよく比較されたが、書き出しの水原談話がすべてを物語っている。全身バネ。軽快なフットワーク。いま流に言えば、まさに“ハイブリッドカー”。後ろからジョギングで近づいてきても、音もなく一瞬にして追い越して行く。
 守りだけの人ではない。非凡なバッティングセンスに、盗塁でも八年連続二桁を続けるなど、1958年から四年間の35、30、29、23はチームトップの盗塁数。まるで鋼のような体は故障とも無縁だった。1956年4月11日から、62年9月5日までの882試合を連続出場。うち、1957年7月15日、甲子園球場における対広島12回戦から700試合、連続全イニング出場を記録。2004年金本(阪神)に抜かれるまでの42年間、プロ野球界の記録保持者だった。
 アクシデントは突然襲った。1962年9月6日、優勝を争っていた対大洋戦(川崎)の試合前の練習時だった。外野でキャッチボールをしていた三宅さんの左目にボールが直撃した。私もまだユニホームを着て現場にいた。左手で目を覆っていたが、その指と指の間から鮮血が流れ落ちる。見るからに痛々しかったことを覚えている。診察の結果は、眼底出血。試合欠場を余儀なくされた。前人未到の大記録はこの瞬間消え去った。その後、二ヶ月間の闘病生活が続いた。ままならない回復力。精神面での葛藤はあったはずだ。苛立ちの毎日でもあっただろう。大いに苦しみながらも翌年には一応戦列に復帰はしたが、左目の視力は元に戻らず、1967年、現役を引退した。
 悔いの残るリタイアだったはずだが、三宅さん、この件に関してのグチは一度も耳にしたことがない。温厚な人だ。穏やかな性格である。物静かな癒し係。私が野球界から退いてからでも、顔を合わせると『オーイ、本間チャン。元気かあ。奥さんや子供さんも元気かなあ』と必ず声をかけてくれた。おっとりした人。決して急がないし、慌てない。もう四十数年前になるが、うちの奥さんからこんな話を聞いたことがある。長男が生まれて間もないころ。三宅さんとばったり会って挨拶すると『奥さん、ボク(長男)をこの電車に乗せて、何回も往復してやったら喜びますよ』の声をかけてくれたという。まだ路面電車が上甲子園から、浜甲子園まで運行していたころの出来事だが、本当、そのまんまの実にやさしい人である。
 普段の三宅さんをよく知っている。だからこそ、不思議でならないことがある。おっとりした性格の人とは思えない、あの俊敏なプレーとのギャップだ。おそらく、三塁手・三宅のプレーをご存知のオールドファンなら、誰もが、すべてに『俊敏な人』のイメージを持っているはずだ。見ていると、打球に対処するときの動きは、まるで、獲物を狙ってスタートするときの野生動物のごとく、一瞬にして静から動へと移行する。性格とのあのギャップ、私の中ではいまだに埋まっていない。
 長嶋さんが目標にしていた選手だという。年齢は同い年だが、なるほど、記録を紐解いてみてその意味がわかった。ミスターがプロ入りする前の年に、セントラル・リーグのベストナイン、三塁手部門で選出されていたのが三宅さんである。プロ野球界でのデビューは高校出身である三宅さんの方が早かったのだ。憧れの眼差しを“サード・三宅”に向けていたのは岡田少年だった。現オリックスの岡田彰布監督である。父親がタイガースの選手と付き合いがあった。大の阪神ファンだった同氏がドラフト一位で指名され、入団した時に付けた背番号が“16”。三宅さんが背負っていたものだった。
 『十二球団ナンバーワン』のお墨付きだった内野陣は、三宅、吉田という鉄壁の三遊間があってのこと。この時期、小山、村山、渡辺らを軸に、投手王国と言われていた裏には、この強力な内野陣があったのだ。そうだ。もう一人“名手”がいた。次回は鎌田実さんに注目してみる。
列伝その19
●三宅秀史
1934年4月5日生まれ。岡山県出身。岡山県立南海高校(現・岡山県立倉敷鷲羽高校)から1953年に阪神タイガース入団。入団3年目から三塁手のレギュラーの座を獲得し、ベストナイン1回、オールスターゲームにも4回出場。どんなに難しい打球でも正面で処理する堅実な守備で、ショートを守る吉田義男との三遊間は鉄壁と称された。1957年7月15日から1962年9月5日まで続いた700試合連続フルインニング出場は、2004年に金本知憲に更新されるまでプロ野球記録だった。不慮の事故で視力が低下したあとは目立った活躍はできず、1967年に現役を引退。1971年までタイガースでコーチを歴任した。

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