[10.10月号掲載]
18人目 吉田義男
俊足で華麗な守備のスタープレーヤーから 初の『日本一』監督へ
タイガースを唯一“日本一”に導いた人。吉田義男さん。二度目の監督に就任した年である。掲げたスローガンが、フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チームのスリーF。ペナントレースに突入する。第一目標のスタートダッシュに成功した。勢いに乗るかと思ったが、なにぶん、優勝から遠ざかること二十年。重圧はのしかかる。中埜肇社長(故人)の不慮の事故が重なった。一時は、広島に首位を明け渡す時期はあったが、優勝が見え出してからの同監督。インタビューでは『一蓮托生で…。一丸となって…。挑戦者です。一戦一戦を大事に…』を繰り返すだけ。選手にプレッシャーをかけない配慮をした発言は、今時なら、流行語大賞的な話題を呼ぶほど注目され、いまだに語り継がれている。
攻撃的なチームっだったのも、吉田監督には幸いした。ゲーム展開が押せ押せムードになると強い人。『攻めダルマ』の本領が大いに発揮された。真弓(現監督)を核弾頭に、史上最強の助っ人バース。不動の四番バッター掛布。勝負師の岡田(現オリックス監督)を軸に、攻めて、攻めて、攻めまくって日本一を勝ち取った人。こうして、前代未聞の、いまだかつてどこのチームも実行したことのない、一、二軍の監督、コーチ、全選手が参加しての優勝旅行が実現した。
いい思い出としていまだ鮮明に残っている優勝旅行は、吉田監督の、かなりプレッシャーがかかる発言から始まった。正式就任発表の記者会見での出来事。この年まで行われていたマウイ(ハワイ)キャンプの継続を問われた時のこと、かっこう良く、即座にこう答えたのだ。『ハワイは優勝して遊びに行くところですよ』と―。過去、二十年間優勝していないチームである。確信などあろうはずがない。強気発言。正直いって私『この発言が後になって尾を引かなければいいが…』とマジで心配した。よくあることで、もし優勝しなかった場合、このネタを元に面白おかしく、かなり厳しい記事が掲載されるのは目に見えている。広報担当という立場上、つい先のことまで考えてしまったが、お陰様で取り越し苦労に終わってホッとした。大したものだ。宣言どおり、本当にハワイへ遊びに行かせてもらった。
作戦面では強気なところが目立っていたが、選手を思いやる一面も持っていた。『一番責任を感じているのは本人や。これ以上責めなくてもいいやろ』コーチ会議で選手をかばう発言を聞いたことがある。まわりに気遣いのできる人だと思うが、なぜか指揮を執った最終年になると、いずれの年もマスコミとの確執が勃発する。最後の年の成績が極めて悪いのが原因だろうが、不思議でならないのは、一度ならず、二度、三度と同じことを繰り返したこと。確かにマスコミ報道も目に余るところがある。皮肉を交えた記事があったり、あれだけ派手に“吉田退陣”の大見出しを連日見せつけられたら、腹も立つだろう。京都弁がよく出る人、口調は穏やかでやさしく聞こえるところにギャップを感じるだろうが、そこは弱肉強食の世界で一流を極めてきた人だ。当然プライドは高いし、性格は気短というか、かなり激しい一面を持っている。プライドと、目に余る紙面の衝突。ある意味、火花が散るほうが自然かもしれない。
吉田義男さんといえば、タイガースで最も多い三度指揮を執った人。現役時代の背番号“23”は、長年の功績を称えて永久欠番。1992年には野球殿堂入りを果たした実績の持ち主。選手生活はタイガース一筋に実働十七年。俊足と華麗な守備が売り物の選手。私が入団した年には、もう六年目。押しも押されぬ、バリバリのスタープレーヤー。高校出の新人、まだ右も左もわからぬ若者に『これぞ、プロ!』の恐ろしさと、教訓を与えてくれたのが吉田さんだった。
まず走塁である。もの凄くレベルの高い技を目の当たりにして驚いた。盗塁の技術ではない。ベースランニングのうまさでもない。ベースランニングは多少のかかわりがあるかもしれないが、打球に対しての判断である。フラフラッと上がった、当たり損ねの小フライ。内、外野手の間にポトリと落ちるか、捕られるか。俗に言うポテンヒット。迷ってスタートがなかなか切れない選手が多い中、吉田さん、ほんの一瞬打球の行くほうを見たかと思うと、躊躇なくスタートを切っている。二塁から余裕のホームイン。何度も見せてもらった。『プロ野球って、投げて、打って、守って、走るだけではないんだ』各部門に、こうしたハイレベルな技を備えた人がいるかと思うと、この世界で生き抜いていくための不安を感じたことを覚えている。
守備でも見せてもらった。二遊間を抜けそうな打球をダイビングキャッチ。打者走者をアウトにするプレーは今でもよく見るが、吉田さん、三遊間の打球をダイビングして捕球。この状態から立ち上がって一塁へ送球。見事打者走者を刺すプレーを、ごく当たり前にやってのけた。強肩が成し得る技だが、小柄ながら肩の強さは抜群だった。そして、イージーな打球は、捕球したかと思ったらいつの間にか送球している。その早いこと。まさしくプロ中のプロ。我々投手陣には本当に心強い存在でした。“ショート吉田”といえば“サード三宅”でしょう。鉄壁の三遊間。次回は三宅秀史さんで…。
列伝その18
●吉田義男
1933年7月26日生まれ。京都府出身。山城高校から立命館大学を経て、1953年に阪神タイガース入団。1年目からレギュラーの座を獲得し、不動の遊撃手として活躍する。ベストナイン9回を誇る華麗な守備に定評があり、「牛若丸」の異名をとった。1954・56年には盗塁王にも輝き、通算盗塁数は350。1969年に現役引退した後は、評論家を経て、1975年にタイガース監督に就任。二度目に指揮を執った1985年には、21年ぶりのリーグ制覇、初の日本一に導いた。1987年、背番号23は永久欠番に。1992年には野球殿堂入りを果たす。野球フランス代表監督を務めたことから「ムッシュ」の愛称でも親しまれ、現在は野球解説者として元気な姿を見せている。