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本間勝交遊録
[10.2月号掲載]
11人目 ジーン・バッキー
ニッポンに溶け込んだ ただ一人の外国人沢村賞投

 ジーン・バッキー。タイガースファンならご存知の人は多いだろう。二度目のリーグ優勝した1964年、二十九勝をマーク。ペナント奪回の原動力となった投手。日本球界で通算、百勝を挙げた実力者だったが、来日していた時代が悪かった。シーズン途中のテスト入団。期待度の大、小はあったにせよ、住まいは木造で二間のアパート。家賃は自分持ち。甲子園球場への往復は徒歩。数十万円する高級住宅に入居。家賃は球団持ち。球場往復はタクシー。現在の外国人待遇とは雲泥の差。今、振り返ってみると、本当に気の毒。こんな環境の中で活躍したバッキーとは・・・。
 待遇の違いは、自宅の問題だけではない。遠征先の宿舎もそうだ。今や一流のホテルで一人一部屋を用意してくれるのが当たり前。当時はというと、日本人選手と同じ日本旅館。数人同部屋で布団を敷いて寝起きしていた。パジャマは私物を持参していたが、時々浴衣を着て部屋から出てくる。外国人と浴衣。どうみても違和感がある。何しろ185㌢を超える長身。裾はヒザまでしかない。その姿、実にコッケイで、つい吹き出してしまうほど。プロ野球選手が泊まる旅館だ。大きめの浴衣があってもいいはずだが・・・。『しかたないね』ままならぬ日本語で、両手を広げて笑っていたが、当時はそれが当たり前。
 エースに成長しても、待遇にかわりはなかった。高知・安芸市で初めてキャンプを張った年(1965年)。何しろキャンプ地はかなり田舎だ。ホテルなどない。滞在する期間は長い。ベッドで寝たいといっても、そんな気の利いたものを設置する場所はない。安芸市の皆さん、さぞや頭を痛めたことであろうが、熟慮した結果誕生したのが、〝プレハブ〟住宅。市役所近くの空き地に建ててくれた。当然ベッドも手配してくれた。ところが寸法が合わない。大慌てで代用品を継ぎ足して事なきを得た一幕はあったが、あの頃は、エースであっても、こんな悪条件の中でキャンプ初日からの参加を義務付けられていた。このプレハブ、ネーミングがふるっている。『バッキーハウス』実に素朴で、いかにも田舎町らしいとこがいい。当時を知る人達の間では、いまだに語り草になっているとか―。
 環境が良かった?のだろう。バッキーの野球に取り組む姿勢は大したものだった。よく走っていた。ピッチング練習も手を抜くことはなかった。コントロールが欠点だった己をわきまえていた。前月号の最後に触れたシーンである。省さんや小山さんがピッチングを始めると、食い入るような眼差しで両投手に注目する。研究熱心だった。『これだけコントロールのいいピッチャーは、アメリカにもいない』こんな話を聞いたことがある。少々時間はかかったが、ついには二人の制球力を支えているコツを盗みとった。元々球はよく動く(変化する)投手だった。コントロールがつけば鬼に金棒。一シーズン二十九勝という、物凄い勝ち星をマークした背景には、こうしたハングリー精神と努力があった。
 ままならない問題。腑に落ちない事柄には、すべて『しかたな〜い』の日本語と、外国人独特の両手を広げたゼスチャーで片付けていた。かの有名な乱闘事件。甲子園球場の巨人戦。長嶋氏の手首に死球。王氏には背中の後ろへ投げる。天下のO、Nが相手だ。両軍全選手がベンチを飛び出した。マウンド上で蹴りを入れてきた荒川コーチ(故人)に激怒。額に浴びせたパンチで右手親指を骨折。短命に終わってしまった投手生命についても、肩をすくめて『しかたな〜い』―。最多勝(29勝)と防御率(1・89)、立派な成績で両タイトルを奪い、チームをリーグ優勝に導いた年も、何故かセ・リーグのMVPに選ばれなかった。こんな不運も『しかたな〜い』と陽気にふるまった。日本語はなかなか達者。対巨人OB戦で十数年ぶりに来日したときも、まだ日本語を覚えていた愛すべきヤツ。かなりメタボにはなっていた体形も『しかたな〜い』で済ませるあたりは、現役時代と少しもかわっていなかった。
 親しみの持てる男だった。愛妻家でもあった。待遇の面で気の毒なところはあったが、私生活では実に目出たい事なことをやってのけた。子作り。ここでも実力?を発揮した。この件に関しては、奥さんの頑張りをたたえるべきだが、ある年の、一年に子供を二人出産する離れ業にはびっくりした。この年の一月。生まれたばかりの可愛らしい赤ちゃんを連れて来日したかと思ったら、同じ年の十二月にも子供が生まれたという一報が入ってきた。再び来日した時には、仲間からかなり冷やかされていたが『これは、神様からの授かりものよ』陽気な男も、この時ばかりは大いに照れまくっていたが、やることはさすがデッカイ。
 当時を振り返ってみる。初めて足を踏み入れた異国の地。生活環境は全然違う。言葉は通じない。不安は募るばかり。不便な面は多々あったはず。厳しい精神状態の中でチームの優勝に貢献した。外国人天国といわれる現在と比較すると、本当、気の毒な時代だった。あの年、投の柱がバッキーなら、打の中心は故・山内一弘さん。出身は名古屋の隣の一宮だが、タイガースに来た年には、もう郷里を離れて十年以上たっているのに、まだ、まだ名古屋弁が抜け切っていなかった人。私も名古屋の出。よくわかるだけに、つい〝プッ〟と吹き出しそうになったことも・・・。
列伝その11
●ジーン・バッキー
1937年8月12日生まれ。米国ルイジアナ州出身、サウスウエスト大卒。1962年7月に来日して阪神にテスト入団。1964年には29勝9敗、防御率1.89で最多勝利投手賞、最優秀防御率投手賞、ベストナインを受賞。外国人投手初の20勝投手となるとともに、沢村賞を獲得した。その翌年5月に巨人を相手に自ら2打席連続本塁打を記録すると、6月にはノーヒットノーランを達成と、投打にわたって見せ場を作ることも。1969年に近鉄に移籍、その年限りで引退した。外国人選手としては、ジェフ・ウィリアムス投手に並び、球団最長となる7年間の在籍で、通算100勝80敗、防御率は2.31という数字を残した。

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