[10.1月号掲載]
10人目 渡辺省三
独自の調整法で磨いた抜群のコントロール
シーズン真只中。ローテーションの一角を担う投手が『スマン。ちょっと投げさせてくれるかぁ』自ら、バッティング投手を志願してきた。私が新人の年だ。『まさか・・・』初めはビックリしたものの、以降、同じ光景を何度も目にして納得した。故・渡辺省三さんの独自の調整法だ。己の投手生命を心得た人。コントロールの修正を図るための行動で、ごく当たり前のようにスイスイ投げ始める。コントロールの悪い我々と違って、ほとんどがストライク。バッターは気持ちよさそうに、いい感じで打ち出す。何かを盗もうと注目するが、見ていてうらやましい限り。『こんな調整法もあるんだ』と感心するばかりで、やはり私には無理でした。
そういえば、省さん(生前と同じ呼び名で書かせていただきます)とバッティング投手との関わりを聞いたことがあった。『入団した年は、ほとんど毎日バッティングピッチャーをしていた』という。元々コントロールは良かった人。入団したいきさつが、バッターの調整台としての採用だったとも聞いた。一年間は来る日も、来る日も投げ続けた。その結果が、自分の投手生命でもあるコントロールに磨きをかけた。そう信じて止まない同氏。だから、シーズン中であっても打撃投手をかって出ることに抵抗はなかった。制球力が微妙に狂ってきたと思えば、自分から進んで投げた。二十分から三十分。要するに、コントロールの原点がバッティング投手だったのだ。
近代野球では、まず考えられない調整法だ。『体力が消耗する。肩、ヒジに負担がかかる』がその理由。近いところでは、新聞紙上でタイガースの『下柳が投げた』という原稿を目にしたことはあるが、一シーズンに一度あるか無いかの話。現在では、バッティング投手専門のピッチャーがいる。その必要が無いのも確かだが、それを考えると今、省さんが現役だったらどうしていたか―。興味の湧くところだが、おそらく同じ事をしていたに違いない。当時のバッティング練習は、ローテーションに関係ない我々若手が投げるケースが多かったが、バッティング投手をした日でもベンチ入りし、戦況によってはゲームに登板することもあったので、我々にとってはありがたい存在だった。
技巧派を絵に描いたような投手。省さんの制球力には、あの精密機械とまでいわれた小山さんも一目置いていた。球は速くない。当時スピードガンがあったなら、おそらくマックスが百三十キロ台の半ばぐらいだったはず。大きな変化球があるわけではない。いかつい人でもない。どちらかといえば弱々しく感じられる方だ。やさ男、まさしくコントロールと精神力が命。マウンド上では、全くのポーカーフェイス。少々ピンチに立っても顔色ひとつ変えない。時には、現日本ハム・多田野ばりの山なりの超スローボールを平気で投げる。ピッチャーがゆるい球を投げる時、かなりの勇気がいるもの。こうした大胆な一面を持ち備えた勝負師だった。
持ち味は、打者の手元で微妙に変化するクセ球。見た目は、何の変てつもない球。打てそうで打てない球。相手打者を完全にほんろうした通算成績は、実働十三年間で百三十四勝九十六敗。防御率が二・四四。1956年には二十二勝八敗の好成績をあげ、一・四五という素晴らしい内容で防御率のタイトルを獲得している。一緒に生活していると、実に温厚な人。私が西鉄へ移籍する年は、もうピッチングコーチをしていたが、トレードを直にそっと教えてくれたのは省さんだった。『西鉄へ行ってもやることは一緒やから頑張れよ』と温かい言葉で背中を押してくれた。フロントマンとしてタイガースへ復帰した時、スカウトをされていた同氏は『おう、帰ってきたか。頑張ろうぜ』と温かく迎えてくれた。ユニホームを着ている当時を思い出した。少々年は重ねていたが、その仕草等にかわりはなかった。
独自の調整法で中心投手の座を築いた人。口数は少ないが、人間味があった。いつも、笑顔で挨拶をかえしてくれた。実にやさしいイメージの持ち主だが、あとひとつ、省さんを語るに素通りすることのできないエピソードがある。見掛けによらぬ勝負師。当時の遊びの主流は麻雀。その博才には、タイガース内での言い伝えがある。『鬼の浅越(桂一氏)。蛇の古川(啓三氏・故人)。二度とやるまい〝省さん〟と―』的を射た伝説で、いかなる勝負師だったかを裏付けている。独特の鋭い読みと、粘っこさには定評があった。卓を囲んでもマウンド上同様のポーカーフェイス。私も何度かお相手したが、省さんの胸の内を読むことはできなかった。
省さんと前回の小山さん。我々、お手本にしようと注目したものだが、この両投手のピッチングに、いつも食い入るような鋭い視線を送っていたピッチャーがいた。ジーン・バッキー。日本で通算百勝をあげた投手。公、私ともども凄い奴だった。
列伝その10
●渡辺省三
1933年2月26日生-1998年8月31日没 愛媛県出身
愛媛県西条中学(現県立西条高校)から倉敷レーヨン(現㈱クラレ)西条工場へ。1951年オフにテスト応募でタイガースに入団した。背番号は「26」。初年度の1952年は二軍暮らし。翌年の鹿児島鴨池キャンプそしてオープン戦で松木謙治郎監督の目にとまり、一軍昇格を果たした。以降13シーズンにわたって積み重ねた勝利数は134(96敗)、生涯防御率は2.44。本文中にもあるとおり、1956年には22勝8敗、防御率1.45で最優秀投手(防御率)賞を獲得するなど、打たせて獲るコントロールの良さが生命線だった。その前年の10月7日の対中日戦では、当時のリーグ最少記録となる75球での完封勝利(試合時間1時間16分)を挙げ、また1957年9月26日の対広島戦でも延長13イニングスを112球で1対0の完封勝利。この時は九回までの投球数がわずか70球だったというエピソードなどからも、そのピッチングスタイルが十分にうかがえる。