[9.10月号掲載]
7人目 稲尾和久
元祖・鉄腕投手からの仰天のひと言・・・
西鉄黄金時代の大投手。故・稲尾和久さん。私がライオンズに移籍した年は、酷使による故障の後遺症もあってか、もう全盛時代の迫力はなかったが、どこから、どう見ても勝負師が持つ独特の雰囲気はない。実に温厚な人。ゆったりとした動き。ニコやかな表情。穏やかな口調。体だけはいかついが、トレードマークの細い目がすべてを物語っている。愛称はこの風貌からくる“サイちゃん”(動物の犀)。先発に、リリーフに大車輪の活躍。神様、仏様、稲尾様の称号はあまりにも有名。桁外れの実力者。二年先輩。実績から、かなり厳しい人のイメージを持っていたが、どっこい。273勝を挙げた大投手とは思えない『好人物』だった。
それでも風格がある。物凄いオーラを発しているのに、不思議な人だ。こんな発言が・・・。
『オレなぁ。ランニングが嫌いで・・・』
好きな人はいないが、こんなにはっきり言う選手はいない。そうかといって、全く走らないわけではない。確かに全力疾走している姿はあまり見たことはないが、自分の立場はわかっていた。外野で、何度も、何度もダッシュを繰り返している。実家が漁師。子供の頃から和船の櫂を漕いで足腰を鍛えたというが、グラウンドでの動きを見る限り、稲尾さんのどこにそんなスタミナが潜んでいて、どこにそんな強靭な精神力を持ち合わせているのか、わからないほど『温厚な人』
42勝―。1961年に挙げた勝ち星。おそらく、永遠に破られることのない記録だろう。剛速球のイメージはない。凄い変化球の持ち主でもない。球の切れと、制球力だけで残した数字。現役時代に『1、2点のビハインドなら、喜んでマウンドに上がった。だいたい逆転してくれたよ』こんな話を聞いた。そして、完投した翌日もブルペン入りしていた。いつでも登板できる準備をする。現代野球では考えられない起用だが、並外れた稲尾さんのスタミナと、打線との信頼関係が積み上げた勝ち星だろう。21、35、33、30、20、42、25、28。八年連続して20勝以上を挙げた、各年の勝利数である。どうしてもイメージは湧いてこないが『凄い』のひと言。
また、信じられない稲尾さんと遭遇した。三連覇の大黒柱が・・・。神様が・・・。仏様が・・・。まさか―。今でもあの時のことは、はっきりと覚えている。私が西鉄へ移籍した年のスプリング・キャンプ。場所は皆さんご存知だろう。以前、火砕流、土石流の大被害に遭った雲仙・普賢岳の麓にある島原市。宿舎はその被災時に大活躍した、鐘ヶ江市長が経営していた国光屋旅館。少々話がわき道に逸れてしまったが、このキャンプ、私が目を皿のようにして注目したのが、大投手の調整法だった。物凄い実績の持ち主。さぞや綿密な計画を立て、きっちり練習を進めていくものだと思っていた。ところがである。朝は眠そうな目をこすりながら起きてくる。球場入りしてからのブルペン。軽いピッチングはするものの、ゆっくりしたフォームで、ゆるいカーブを多投している。『これが稲尾流の調整法かあ。こういう方法もあるんだ』と感心していると、まさか―。この人、やっぱり『不思議な人』だ。
耳を疑った。本当、ビックリした。『オレよう、今までカーブを投げたことがないんよ。自分等、どうして投げてる・・・?』大投手から、こんな話が出てくるとは思わなかった。連日ゆるーいカーブを投げていた理由がわかった。ある意味、変化球の中でも一番簡単に投げられる球種だけに、信じられない出来事。本人にしてみればマジな話。どうするか注目してみた。やはり並みのピッチャーではなかった。キャンプ、オープン戦で完全にマスター。そのカーブを操ってこの年、1・79という抜群の防御率でタイトルを獲ってしまった。『さすが大投手』である。
誰もが認める大投手。私が西鉄の退団が決まって帰阪するとき、何故か福岡空港でバッタリ会った。『働き場所がなかったら連絡してこいよ』と声をかけてくれたやさしい人。ジョークも大好き。ユニホームを脱いで、評論家として関西で活躍していた頃。胸のポケットに『CD』の刺繍入りのジャケットを着てベンチへ。『オイ、このクリスチャン・ディオールの洋服、いいやろう』ベージュ色でなかなかお洒落だったが、後から真実を聞いて大笑い。真相は『中日ドラゴンズ』でコーチをしていた時の、ニックネームの頭文字をとったチームの制服だった。完璧にだまされた、おもろいオッチャン。何事にも長けている。ゴルフはシングルの腕前だった。西鉄ライオンズとゴルフといえばこの人。次回は、野球人・ジャンボ尾崎を・・・。
列伝その7
●稲尾和久
1937年6月10日生
大分県別府市出身
別府緑カ丘高〜西鉄(1956-1969)(1970-1972監督)・太平洋(1973-1974監督)〜中日(1978-1980投手コーチ)〜ロッテ(1984-1986監督)
「神様、仏様、○○様」の元祖・鉄腕投手。ルーキーイヤーの1956年に21勝6敗、防御率1.06の成績を挙げて新人王を獲得し、この年からの日本シリーズ3連覇に大きく貢献した。いずれも巨人を相手にしての日本一。中でも1958年には7戦中5試合に先発、4試合を完投、6試合に登板。チームが3連敗後の4連投4連勝で、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれるようになった。1961年には78試合に登板してシーズン勝利の日本タイ記録となる42勝をマーク。1969年に現役引退するまでの主なタイトルは新人王、最優秀選手賞2回、最多勝利投手賞4回、最優秀防御率賞5回など。通算成績は276勝137敗、防御率1.98。
現役引退後は、西鉄、太平洋の監督、中日コーチ、ロッテ監督を歴任。その後野球解説者として長年にわたり球界に関わってきた。1993年に野球殿堂入り、2000年にはプロスポーツ文部大臣顕彰を受賞。2007年11月13日、福岡市内の病院で悪性腫瘍のため、惜しまれながら70年の生涯を閉じた。