[9.2月号掲載]
2人目 村山実 〜「炎のエース」との水遊び
若かったなあ―。一人ニヤニヤしながら、約半世紀ほど前の一件を思い出していた。野球界はまだ“水泳厳禁”の時代。バレたら怒られるのは当然。わかっているのにやってしまった海水浴。私、23歳。お互い若かったゆえの出来事。相手が悪かった。我々を誘惑したのは南国のリゾート地ハワイ。一緒にお目玉を食らったというか、私は横で小さくなっていただけだが、代表して怒られ役を引き受けてくれたのは、2代目ミスタータイガースの故・村山実さんだった。
このバッティングを借りて申し訳ないが、思いっ切り言い訳をさせてもらうと、初めて目にするワイキキビーチは、若者の心を惑わす魔性の持ち主だった。その気になるのも無理ないね。
1963年だった。大リーグ、デトロイト・タイガースのキャンプ地、フロリダはレークランドで行った球団初の海外キャンプ。みっちり練習したあと、帰国時に立ち寄ったのがオアフ島だ。当時には、優勝旅行なるシステムはなかったが、前年度リーグ優勝したご褒美か、球団の粋な計らいでハワイに2泊させてもらった。その時のルール違反。さすがのエースも直立不動だった。
現代のプロ野球界では、水泳、アイシングなど体を冷やすことは当たり前になっている。時代の流れがよくわかる。当時、野球選手の水泳はご法度。アイシングなどとんでもないことで、体を冷やすこと自体が故障に繋がるとされていた。が、今、自分は常夏の国にいる。チームの皆さんは島内の観光に出かけた。疲れ気味だった私は、ゆっくり寝たいがため観光をキャンセル。して、昼近くまでゆっくり休んだ。目を覚まして部屋のカーテンを開けてみた。窓越しには綺麗な海が見える。しばらくぼんやりと眺めていたが、自然に足が向かったのはワイキキビーチ。日本ではまだ女性のビキニ姿はそれほど普及していなかったが、なんと、なんと。浜辺はビキニの花盛り。泳ぐ人、日光浴を楽しむ人。目のやり場に困るほどだったが、目の保養になったのは、確か。20〜30分フラフラして帰宿した時、バッタリ出会ったのが村さん(村山さん)だった。
『泳ごうか』―。気持ちの上での葛藤はあったが、自然にワイキキビーチの雰囲気ならではの話題で盛り上がった。そこへ、若生智男さん等が加わり、『みんなで泳げば怖くない』ではないが、数人で海水パンツを調達してワイキキの浜辺へ。南国の海は気持ちいい。気分は爽快。泳ぐだけでは物足りず、ついにはサーフボードを借りてサーフィンに挑戦。大きな波が来るのを待って何度もサーフボードの上に立つが、なかなかバランスがとれない。大いにハシャいで、機嫌よくホテルに帰ると、悪いことはできないものだ。チームは観光を終えて帰宿していた。我々海水パンツのまま。何をしていたかは一目瞭然。その代償が海水浴事件である。
言語道断。大投手もルールを犯していては返す言葉はない。ホテルで待ち構えていたのは当時の監督、故・藤本定義さん。海外キャンプを終えての帰国途中である。何か事故でもあったら大変だ。おまけにルールを破っている。責任者の監督が怒るのも無理はない。直立不動、チラッと村さんに目を向けると、ダイナミックなピッチングとはかけ離れて神妙そのもの。堂々たるマウンド上の姿とのギャップに、つい吹き出しそうになったが、場所が場所だ。ぐっと我慢の子だった。今、当時を振り返ってみると“若さ”は実に逞しい。説教を食らった直後だというのに、部屋へ帰るエレベーターの中では、すでに気持ちの切り替えはできていた。『楽しかったなあ。オレ、きょうなあ、髪の毛を短くされていたからか、中国人に間違えられたでえ』。我々若手への気遣いもあってか、もう笑っている。この時の村さん。キャンプ地で床屋の資格を持つD・タイガースの選手に散髪してもらったのはいいが、意に反してスポーツ刈りにされていたからだろう。そして帰国してほとぼりが冷めた頃には『ハワイまで行って、泳がない手はないよな』と優越感に浸るほど。物事に動じない。気分転換は早い。やはり大投手は違うね。
村さんといえば熱血漢。熱く燃えたぎった男。躍動感溢れる、あの豪快なピッチングフォームは、当時のマラソンランナー、ザトペックにちなんで『ザトペック投法』と言われてファンを魅了した。監督経験2度。実働14年間の戦績は509試合に登板。222勝147敗。防御率は2・09。タイトルは最多勝2回。最優秀投手(防御率)3回。奪3振王2回。本格派の投手に贈られる沢村賞3回。投球回数は、200イニングス以上の年が7回など、計3050回3分の1。凄いの一語に尽きる。
若気の至りだった。誰にも一度や二度の脱線はある。次に登場するミスター・タイガースも何度か脱線はした。掛布雅之―。努力の人。野球に取り組む姿勢は感心するばかりだった。
列伝その2
●村山実
1936年12月10日生―1998年8月22日没、兵庫県尼崎市出身
住友工業高(現尼崎産業高)〜関西大〜大阪(阪神)タイガース(1959-1972<1970〜72監督兼>、1988-1989監督)
1993年野球殿堂入り
1958年11月11日。かねてより誘いのあったジャイアンツではなく、宿命のようにタイガースに入団。後にタイガース永久欠番となる背番号「11」を背負うことになった村山実投手。翌年のルーキーイヤーには、プロ初登板、国鉄戦での被安打2、完封勝利を皮切りに、18勝10敗、19完投、防御率1.19、投球回数295 1/3、294奪三振という数字を残し、最優秀防御率賞と沢村賞を獲得した。以降の輝かしい功績は、本文にもあるように、枚挙に暇がない。
何より、後世に語り継がれる伝説となった、後楽園球場でのプロ野球史上初の天覧試合も、1959年の6月25日。4対4で迎えた九回裏に、村山投手は先頭の長嶋茂雄選手に左翼ポール際へサヨナラホームランを運ばれた。その後、村山氏は晩年まで「あれはファールだった」と信じ続ける一方で、「長嶋さんに真正面から勝負して打たれたのだから悔いはない」と、潔さを見せていた。
そしてこの年から繰り広げられていった、長嶋や王といったジャイアンツのスター選手対、タイガースの「炎のエース」との名勝負は、長い歴史を誇る「伝統の一戦」の重要な一時代を築いていった。
タイガース監督としての5年間は2位が二度と、思うような結果を残すことはできなかったが、その背番号「11」と、闘志を前面に真っ向勝負を挑むその姿勢は、球史の中で永遠に語り継がれていくものとなった。